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まず、はっきりさせておこう。撮影者の視点が定まれば自ずと構図も定まる。
そして写真において画角は、撮影者の視点のあり方、撮影者の世界観を表すためにある。広い範囲が写せる、遠くにあるものを引き寄せられるといった効果は副次的なものにすぎない。
結論を書いてしまうなら、
1 世界観を持て
2 世界観があれば自ずと視点が定まり必要な画角は限られる
3 肉眼の視野にレンズの画角を連動させて世界観に則って被写体を見つけろ
4 ズームはころころと世界観が変わる扱うのにスキルが必要なレンズ
ということになる。
未知なロケーションで被写体を発見して的確に構図を取るには、撮影に使用するレンズの画角が頭に入っていなければならない。レンジファインダーカメラのファインダーに浮かぶブライトフレーム(画角を示す枠)が視界の中にあるようなものだが、実際には画角を想定したとき意識の集中度合いによって視野が変わる状態にする。
私たち人間の視野はズームレンズのように倍率を拡大縮小できないが、意識の持ち方次第で広い範囲を見たり狭い範囲に集中させたりできる。カメラに装着しているレンズやカメラバッグの中に控えているレンズの画角を、こうして想定して環境を見ることができないと適切に構図を取れない。
前述のように私たちは意識の集中度合いで視野の広さを変えられるので、たいがいの人は標準レンズで撮影しようとしているなら標準レンズの画角相当に視野を絞り込んで対象を見ているはずだ。もちろん他の焦点距離=画角でも同様だ。ところが視野を画角相当にして環境や被写体を見ることができない人もいる。
もし自分が所有しているレンズの画角を思い浮かべて視野を調整できないなら、撮影者としてそうとう致命的な欠陥なので画角を身につけることからはじめなくてはならない。
画角が身についていないのは、「このように世界を見ている」という視点や世界観が定まっていないのを意味する。つまり世界観がないまま被写体を探したりディレクションしていることになる。
技術面では、画角と視覚がシンクロできれば撮影できる範囲=広さがファインダーを覗かなくてもわかるだけでなく、画角がわかるのだから必要なワーキングディスタンスも把握できる。
また肉眼で画角を想定できるなら、どの絞り値でどのくらいのボケになるかもわかる。直感的にわかるだけでなく、ワーキングディスタンスとの関係からも容易に想像できる。
ズームレンズは無段階に焦点距離を変えられる。無段階に変えられるが、たとえば24-70mmなら24mm、28mm、35mm、50mm、70mmの画角それぞれを撮影者が自分の視野に当てはめて被写体を発見したり構図の適切化をすべきだ。
往々にしてズーム両端しか自分の視野に置き換えられない人がいる。また単焦点レンズで画角をちゃんと想定できる人でも、ズームレンズをカメラにつけると両端の画角ばかり意識するようになりがちだ。
さらに画角がまったく身についていない人は、自分の視野を画角相当に調整して被写体を見ることができないので、ズームレンズを鏡胴に刻印されている焦点距離の数字でしか理解していない。
ズーム両端の画角しか肉眼の視野として想定できないなら、無段階に焦点距離を変えられるズームレンズの両端近くしか有効に使えない。なぜならファインダーを覗いてからズームして目論見ちがいを正すのでは、既にワーキングディスタンスが両端いずれかに適切化されているのだから修正ではなく辻褄あわせにしかならない。
構図違いを撮影しようとその場でズームを操作するのも、当たるも八卦当たらぬも八卦の当てずっぽうな操作でしかない。これもワーキングディスタンスが不適切なのに画角だけ変えるのだからとうぜんだ。
画角が大きく変われば主たる被写体の倍率が変わるだけでなく、前景、背景の範囲も変わる。また焦点距離が変わればパース描写も変わる。世界観がころころ変わるのだ。
こうしてズーム操作をしてよい写真が撮れたとしてもまぐれだ。まぐれでも成功したなら撮影した者勝ちだが、継続して同じテイストの作品をつくれない。適当に撮影する弊害は精神論としてダメなのではなく、作風やテイストの一貫性、再現性が難しくなるところにある。
ズームレンズは簡単な操作で世界観がころころ変わる。撮影者の視点と世界観がころころ変われば、あたりまえだがテイストの統一から程遠い写真になる。
次に手持ちのズームレンズの画角を、肉眼で見る際の視野としてまったく想定できない人の問題を考えよう。
ズーム両端だけでも撮影できる範囲がわかっていれば、24-70mmなら24mmと70mmレンズとして使うことができる。いっぽう自分の視野で画角をまったく想定できない人は、「なんとなく被写体が大きいからとりあえず広角側にする」とか「なんとなく遠い被写体だからとりあえず望遠側にする」といった撮影になる。
このように「なんとなく」な撮影ではやみくもにズームレンズの両端に焦点距離を合わせがちになる。中間の焦点距離を選択する根拠がないからだ。仮に中間の焦点距離に合わせてファインダーを覗くことがあったとしても、これもまた「なんとなく」でしかない。
この「なんとなくで決める撮影」では「ズーム両端しか自分の視野に置き換えられない人」よりワーキングディスタンスがいい加減になるし、もっと深刻な問題として撮影意図を反映できなくなる。撮影意図とは、被写体を発見したときの感動をそのまま表すための意図であって、なんとなくで実現されるものではない。
目で見て被写体を発見したり、モデルをディレクションしているのだから、このときの「発見」や「ディレクション」が撮影意図そのものだ。ところが画角が肉眼とシンクロしていないのでファインダー像を見て意図が反映されていないのに気づき、ズームでやりくりしたくなり、意図を反映させたかった[主たる被写体]と[前景・背景]の関係や、被写界深度、構図の的確さがすべてばらばらになる。
当初の発見や感動はどこへやらカタチだけ間に合わせた構図になる。
「構図は取れていると思うが、最初に感動したものと何かが違う」という人にありがちな撮影方法だ。
ズームレンズはスキルを要求されるレンズなのだ。
なんでも便利に撮れると「逃げ」を担保させがちなのがズームレンズで、実際には画角による効果が違っても世界感を寄せられるスキルがないと使いこなせないレンズだ。
ズームレンズをムービー撮影で使用する際は1カット内でクローズアップさせたり逆に引いたりを表現に使える。しかしスチルは時間を止めて固定するメディアなのでズームレンズとはいえ1回のシャッターにつき使える焦点距離は1つしかない。
スチル撮影でのズームレンズのメリットはたくさんの焦点距離を1本にまとめたお得感にもあるが、微妙に画角を変えて構図を最適化できる点が本質だ。あくまでも微調整できるところがメリットなのだ。
そこで考えてもらいたいのは、はたしてズームレンズは必要か? という問いだ。
もちろん必要だからズームレンズは存在している。しかし必要もないのにズームを買っていないか、使っていないか自問自答すべきだ。
24-70mmズームは便利だが、あまり広くない場所での撮影で旨味を発揮するレンズであって、ある種のお仕事用レンズだ。お仕事用ゆえに貧乏くさいレンズだ。語弊がある暴論に近い物言いだが、煎じ詰めればこうなる。
自分の創作意欲と関係なくこなさなければならないお仕事で、どんな場所でもそつなく撮影するための道具だから貧乏くさいのだし、お仕事として撮影者の世界観は二の次なところも貧乏くさい。
24-70mmは超広角の一歩手前から中望遠まで網羅している故に貧乏くさく便利なのだが、くるくるとパース効果が変化するため前述のスキルがない人にとっては「何か撮影した気」になれたとしても効果に振り回されて本質がからっぽになりやすい。
16-35mmクラスの超広角ズームも同様だし70-200mmもそうだ。まして広角から超望遠の手前まで続く高倍率ズームは言わずもがなだ。
必要な焦点距離ごと単焦点レンズを買うより、数本分がまとめられたズームのほうが費用対効果が大きいとする考え方にも一理ある。しかし、このメリットを享受できるのはスキルがある人に限られる。ファインダーを覗いてからズームで広げたり狭めたりしている人は、いたずらに多数の焦点距離を抱え込んだにすぎない状態になる。
ズームがないと「もしかしたら撮影できなかもしれない」は誰もが抱く不安だが、これは認知の歪みであると自覚しよう。
たしかにズームを持っていたからこそ撮影できたケースが山ほどある。でもそれは「いつものこと」なのか。焦点距離をズームで変えて様々なパースの効果違いのカットを撮影して「たくさん撮れた」と満足していないか。
被写体を発見したときの感動を表現したいのであって、目先が変わっただけの写真を量産しても撮影意図は反映されないし、単にアレもできたコレもできたに過ぎない。
意図を的確に表現するには集中力が必要で、目先のパース効果や背景の大きさをころころ変えている時点で被写体を発見したときの感動とは別の「絵づくりの体裁」を考えている状態だ。
ようするに世界観とかけはなれた写真ばかり量産しているのだ。
自信がないなら単焦点レンズ1本だけで撮影したほうが、本来の意図と別の表現になったとしても世界観がはっきり統一される。結果として世界観のある写真になる。
© Fumihiro Kato.
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