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過日、ぶらぶら歩きの記事「漠然とした環境を撮るということ」を書いた。最近の夏は地獄のような猛暑ばかりなので、秋めいてきて冬の気配が遠くに控えている昨今はぶらぶら歩きの数少ない好機だ。どこへ行くとも何を撮るとも決めず、ほんといい加減におおまかな場所の目安だけ心において歩いているのだが、時折ちょっとした拾い物をする。
どちらも撮影名所でも特別な場所でもなく、写真を撮ろうと出かけるようなところではない。そういうところを何キロもさまよい歩いて、けっこう疲れ果てたときようやく被写体に巡り合った。漠然とした風景の中に見つけた被写体だ。柿の写真は気持ちが定まっていないのが、水面が鏡像になっている写真はギャラリーで販売することにした。タネをあかすと、写真を上下反転する意図をもって撮影して、意図通りに水面が上、実際の木立を下にしている。こういうのがコレダとひらめくのが釣果ありのケースで、うだうだああしようこうしよう考えはじめた撮影はぶらぶら歩き写真では大したものにならない。
大したものにならなくても撮影するのは、そこに写っている要素をどうやって現像すべきか試行錯誤するのが大事であると痛切に感じるからだ。他の人がどう思うか別に、人物や砂の描写などについて自分好みに現像する手立てに目処がついている。自分の写真として画像化できるのだ。絵画は絵筆を振るう人の意思でナニナニ調と言われるような作品ごとの調子の統一が可能そうに思えるのだけど、写真はありのままに記録されるだけだから物体ごとどうやって自分の調子に持ち込むかが創作上のテーマになる。樹木をどのように作品かするか、これは私にとってかなり大きな問題だった。
他の人は知らないけど、植物の葉がとても難しい。植物のみの写真を撮り続けていてもなお、どう扱ったらよいかわからない。切り花や木立だけ見て、この植物の葉は特に扱いづらいと思うくらいに大問題なのだ。だから克服したいともがくのだけど。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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