遠近感から植田正治、名取洋之助のセンスまで(ある会話)

おいちゃん:この前の記事で300mm望遠のポートレイトが平面的って話をしてたけど、そんなこと考えてもなかったわ。こんにちはおいちゃんです。
おいら:まあたぶんだけど、平面的で異常な顔と体に何も感じない人が多くて、コレうっすら感じてもモデルさんのほうに気を取れられてたのではないかな。だったらタレント写真としては成功だよ。
おいちゃん:そのことにいつ気づいた?
おいら:はやってた時代かな。ああいうのは顔が正面向いてるじゃないですか。ずいぶん平たい顔だなと。紙にタレントの顔を印刷して目のところに穴をあけただけのお面あるじゃん、あれをかぶってるみたいとかさ。それと肩あたりの厚さがない。
おいちゃん:店の前に置いてあるタレントの看板かよ。

おいちゃん:厚く見える方もけっこう気にしてるの?
おいら:こちらは薄いよりは。だけど、気になるね。厚さではないけど、鼻の大きさが誇張されるのは特に。
おいちゃん:しんどいなあ。そんなこと考えはじめると撮影が。
おいら:どれだけ気にするかは個人の気持ち次第だし。でも、デッサンやって絵を勉強している人は避けて通れないものだろうし、写真はシャッター押すだけだからこれくらいは気にしろと。
おいちゃん:こういう立体感がちゃんとできてないと写真としてダメなものなの?
おいら:おいらは気になる。けど、気になるということは意図的にそうすることができる。平面的な表現が発想できる。やったら罰せられるとかではないから、表現が優れていれば誰も文句を言えない。でさ、タレント写真なんかはボケから浮かび上がるところがよくて300mmなんだろうし、文句を言う人がめったにいないなら大成功写真。
おいちゃん:なんだ、個人的な感想だったのか。

おいら:たとえばクルマの広告写真では形状が崩れるのはご法度だった時代が長かったわけ。数百万する商品だからね。写り込むものは抽象的な明暗で具体的な何かが写り込んではダメとかも。商品撮影全般に言えることだけど。クルマではエポックメーキングな広告が出て、こういうのがひとつずつ崩されていったのはおいちゃんも知ってるだろうと。セリカの「流面形、発見さる。」とか。
おいちゃん:イメージカットとかはそうなったけど、カタログの中の写真はいまだに。
おいら:カタログの中身のほうは、ちゃんと形を見せて判断してもらうためだからね。
おいちゃん:かたちが正しく写ってないのに反対なのかどうでもいいのかはっきりしろよ(笑)
おいら:自分のためにつくる作品は好きなようにするしかないよ。おいらの話としては、昔から気になっていたわけで、助手させていただいたときの先生がもののカタチにうるさい人だったりで。でもひとつの基準があってね。

おいちゃん:自分で撮影するときの?
おいら:そうそう。写真をぱっと見たとき、ものの変形に目が行くようなものはつくらないと。写真てものは、特定のものの形状を正しくしても空間はゆがんでるとか、遠くのものが実は変形してるなんて普通なんだよ。空間はゆがんていても目に見えないとか、小さくて変形が気にならないとかはどうでもいいわけです。
おいちゃん:するとさ、ものを変形させる写真は撮れないね。
おいら:何度も言うと悪意に感じるかもしれないけど、篠山紀信はモデルのパースをデフォルメさせた写真が過去の代表作になってて、ああいうのはテーマとして採用しないってこと。魚眼レンズは全周魚眼だろうと対角魚眼だろうと、ちょっと中心をはずれたら歪みまくる。この歪みが楽しいというのは、レンズが楽しいってだけ。だったら個展会場にレンズだけ置いておけよ、と。
おいちゃん:あれは、たしかにそう思うわ。だったらなんだって、やつだな。
おいら:傾くのはいいんだ、個人的感覚として
おいちゃん:そうなの? 水平垂直魔人なのに(笑) そういや、傾いてる写真貼ってたね

おいら:対角魚眼の経験がほとんどないからあれこれ言えないけど、あれは使い方というか見せ方によってはかなり自然に静かにできると感じるよ。ただそういうのを探ってまで撮りたいテーマは自分にはないという。
おいちゃん:そういや、静かって言葉を写真に使ってるけど。これはどういうことなんだ?
おいら:40歳になった頃に静かという言葉に気づいたんだけど、気づくということ前から静かな写真に憧れがあったんだろうと思う。動きがあっても、静か。魚眼のうるささは、ちょっと違う観点だな。ろれつがまわらないまま大声が喋り捲ってる感じだ。大きなくくりでは整然とした写真、空間という言葉から伝わる静けさがある写真を撮りたいってことだね。
おいちゃん:かっこつけやがって(笑)

おいら:うるさいのはかっこ悪いと思う。俗悪にするとか、偽悪ぶるとかでイカサマ感とか、うるさい写真の魅力があっても他人は他人という感じ。写真では植田正治さん、名取洋之助さんがおいらのアイドルで、名取洋之助さんの第二次日本工房なんかのグラフィックのかっこよさがどうしようもなく好きなんですね。1933年から45年だから、まあそういう時代に日本工房は国策のための雑誌をつくって海外宣伝活動を担っていたわけね。

時代背景とか成り立ちの政治性がくっついたかっこよさではなくて、見た目だけで評価するかっこよさが好きなのよ。
おいちゃん:たしかにかっこいいな。
おいら:植田正治さんは泣く子も黙るというかみんな知ってるけど、名取洋之助さんの写真はほとんど知られてなかったりする。名取さんがアメリカに渡って撮影した写真は、写ってるクルマの時代性からわかるようにさ、1937年の撮影なんですよ。なのに、これって。

おいちゃん:1937年なの?
おいら:80年代にイラストの永井博さん的世界観というか、日本人のアメリカ西海岸テイスト解釈がキタ時代があって、写真でもそういう感じが顕著になって。名取洋之助さんの写真の砂漠で男が女を担いでるのなんか、ファッションブランドが80年代につくった広告ですよと言われたら信じちゃうものがあるでしょ。砂礫地帯の道、ルート66を走るクルマなんかも、これが1937年の感覚とは思えない。クルマがクラシックだから時代はわかるけど。最近の映画のシーンだよと言ったら騙される人が出てくる。見てよ、ポールが立ってるところにクルマが来たらシャッター押す遊びだったかもしれない。でもポールの位置をここにしたセンスですよ。
おいちゃん:これって、いつ頃から知ってた?
おいら:おいら? 88年には確実に知ってたね。そのあとに買った写真集がこれで。

おいちゃん:ということはさ、80年代のイメージ広告っていうかこの手のものはモノマネ?
おいら:すくなくともおいらが世話になった先生とか、グラフィックデザイナーとかで名取洋之助さんの写真を知ってる人は当時いなかったよ。狭い世界の話だけどね。日本工房は、グラフィックとか勉強する過程で通る道なんだろうけど写真のほうはね。
おいちゃん:だとしたら、時代が追いついたってアレかあ。
おいら:88年時点で、半世紀まえにさらっとやってたわけですね。現在でも通用するから、半世紀どころの話でないという。だから常々言ってるのが、写真をとにかく見ろよということでさ。古今東西、好きだろうと嫌いだろうと写真作品をみなくちゃならない。俺って写真うまいだろと思い込んでても、そんなことは50年、100年前にやってる人がいたりして。しかも現代の商業写真なんかのレベルより、ずっと先行ってた人がいるのを知るのは無駄にはならない。頭ぶん殴られた気がするんだ、こういう写真に。カメラ情報サイトのカメラ評論家の作例なんか、いくら見たって……。
おいちゃん:その先は自主規制しときなさい。
おいら:そしてね。この写真はローライで撮影してる。標準のと、ワイドので。このたった二つの画角。いまどきのカメラの機能がどうこう、メーカーがどうしたとか、解像度、収差とばっかり言ってる人の哀れさ感じない? 大切だけど本質でもなんでもない。
おいちゃん:その先も自主規制しときなさい(笑)

おいちゃん:で、名取洋之助さんと植田正治さんがアイドルなら、作品も静かな感じする?
おいら:さっきも言ったけど、躍動感とか動きがあっても整然としてるし、魂の濁りを感じる隙もないと思う。この人たちがほんとうに魂の濁りがないか知らんけど。
おいちゃん:似ないようにする?
おいら:似せようとするのはほんと失礼だと思ってる。似せたところで偽物だよね。だから撮影や仕上げの前に名取洋之助さんと植田正治さんの写真を見ないようにはしてる。いいな、いいなと思ってると近づけようとするだろうから。
おいちゃん:何なんだろう静かって。
おいら:魂の濁りについては、ある種の思惑とか人間性が出ちゃうところがあって、俗物根性が写っちゃう。俗物でもいいんだけど、かっこ悪いだけの俗物性は写真にはいらないと思う。あと平面を構成するセンス、もちろんどうやるか考えてるけどセンスが滲み出て完全な調和、動きとかあっても。こういうのをひっくるめて静かな写真と言ってる。

おいちゃん:そういうのは実現できそ?
おいら:したいよね。はっきり「したい」と念じてないとできるわけがないというか。ここ最近はずっとアンビエントなもの、環境とか空間そのものをどうにかしたいと苛立ちながらやってるんだけどね。いまは「意味」についてはどうでもいいというか、そんなもの写真には写らないくらいに考えてるよ。写真によって誰かに通じるのは「意図」を意味する視線のあり方だけだろうってね。
おいちゃん:うーん、どういうことかな?
おいら:さっきの名取洋之助さんの写真を見て「意味」がわかる?
おいちゃん:意味かあ。アメリカっぽいなとか。
おいら:それは意味ではないな。アメリカに行った名取洋之助さんの「意図」ははっきりわかる。この連作を見るとアメリカの社会的明暗がさらっとスタイリッシュに撮影されていて、大リーグの試合とかもあったりするけど、もっと言葉にならないアメリカがちゃんと伝わる。でも「意味」と言われて即答できるものはない。
おいちゃん:そうだな。
おいら:よくさあ、写真の意味がどーこー言うじゃん。この写真の意味がわからないとか、もっと意味が伝わる写真を撮れとか。偉そうにこう言う人は写真がまったくわかってない。どんなに肩書きがすごくても、「意味」のゴリ押しや「意味」をどうこうしろって言い出したらバカが妄言垂れてると思っていいよ。現に名取洋之助さん、植田正治さんの作品に意味を求めることが不可能なんだし。

おいら:でもって「意図」は視線でわかる。視線がわかるというのは、写真にとって大事なところだと思う。どんな写真も、まちがってシャッターが落ちたのでないなら撮影者の視線があるんだ。よくさ、カメラバッグの中でシャッター切れちゃったりするじゃん。そういうのはないけど。
おいちゃん:視線がはっきりしないのはどんな写真なのかな?
おいら:意図がはっきりしてない。意思が曖昧。こうなると画面の整理ができない。これは構図がキマらない。キマるは、決定じゃないよ。パースペクティブから、シャッターチャンスまで貫通する意図がないと、撮影者の意図を伴った視線が伝わらないと思う。だからといって鬼のように目を血走らせて理屈を念じていても、土門拳みたくさ。さらっと、こういう視線が出てこないとな。
おいちゃん:意図かあ、視線かあ……。
おいら:意図を言葉にできるのは撮影者だけで、写真からは視線が見たがっていたもの、視線の欲望がわかる程度なんだよ。だから名取さんのアメリカの写真を見ても、見たかったアメリカ、発見したアメリカへの視線がわかるだけ。
おいちゃん:それしか伝わらないのは寂しくないか?
おいら:表現物で何から何まで説明的に伝わるなんて幻想だよ。そんなの評論とか論説とか論文の部類だ。

おいちゃん:ちょっとまだわからないな。
おいら:だとしたら、欲望がまんま出てるアレやってる最中に撮るやつ。
おいちゃん:流出しちゃうやつ(笑)
おいら:あれは意図と視線が赤裸々だろ。あれの意味は欲望、征服感とかで十分。だけど、性行為してる写真で何かを伝えたい人だけではないから、おいらは風景を求めたりしてる。なぜ撮るかは、おいちゃんとこのまえ話したよね。業だ。業は他人とは関係ないから、内容が伝わるはずがない。共感だって、どうなんだかと思う。これはもうどうしようもないと割り切ってるわけね。流出しちゃうやつは、みんな基本的に興味あるし、大好きだろうから誰が撮ろうと性的趣味が合う人にはジャストミートするけど。
おいちゃん:この喩えならわかるわ(笑) だから需要と供給がいつの時代も太いパイプでつながってるし、食い詰めたらソレでもやろうかとかさ(笑)
おいら:ポルノは表現物として、ほんと強力なものなんだわ。ポルノやらないというか、おいらの業はそこにないから、ああいう写真を撮ってる。視線を伝えるだけでもたいへんなんで、物語性をつくるため必死に作品の背景を語ったり、背景を捏造するため人格を装ったりする人もいるけど、おいらはそういうのが嫌いだから淡々と精進するだけなんだ。植田正治さんは、いちいちそういうことしてなかったでしょ。
おいちゃん:ペンタックスの広告出てたけどなあ(笑)
おいら:植田正治さんは飄々としてるように見えて、とてつもないセンスで恐ろしいものを見てたのが写真だけでわかる。あそこに写ってるのは、この世ではないってさ。あの写真見て鳥取砂丘と知ってるから鳥取の名前が出るけど、作品だけ見ると平行世界のどこかにしか見えない。時間がねじれた向こう側にしか見えない。スタイリッシュに、視線はそういう世界を見てたんだなって。
おいちゃん:でも、そういうのって伝わるのかな。
おいら:いつか伝わると思ってるよ。瓶にメッセージ入れて海に流す的な。ポリスの「Message in a Bottle」だよ。写真に写ってる要素、パースペクティブ、仕上げの調子。これらははっきりした意図であって視線そのものだから。「惑星と文明」「時間は砂となって降り積もる」「その場所に、その彼方へ」とかタイトルつけて、球を投げる方向だけははっきりさせてるし。植田正治さんが、ひたすら砂丘をスタジオにして完璧な構図で、どこまで必然でどこから偶然かわからない演出を徹底してたように。視線を徹底するしかないんだよ。

Fumihiro Kato.  © 2018 –

Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. All Rights Reserved.

 

Profile

F.Hiro.K
加藤(文)文宏 / Fumihiro Bun Kato a.k.a Hiro.K
写真家・作家 / Photographer Author
・北海道北見市生まれ。
・大学卒業時までに詩集「無題あるいはサラバ」、同「Cadenza」発表(共に絶版、在庫なし。「Cafebza」別装丁私家版のみあり)。
・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。
・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他)
・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。
・不二家CI、サントリークォータリー企画・取材、Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告、武田薬品工業広告、他。アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材、MIT Museum 収蔵品撮影 他。
月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。
・長編小説「厨師流浪」で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」他、小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。
・獅子文六研究。
・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。
・各メディアにおけるスチル撮影。
・オリジナルプリントの製作、販売。
・JSAHP正会員
Translate »