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人それぞれの中に固有のリズムあるいはグルーブ、律動が存在している。これは音楽に限らず、言葉を話す、書く、絵画を描く、デザインする、写真を撮影するなどなどあらゆる生活にはっきりしたかたちで現れる。なにを言っているかわからないなら、漠然と適当に踊ってみることを勧める。誰も見ていないところで、見栄えであるとか完成度とか関係なく、とにかく適当に。
私は前述のとおりすると、マオリの「HAKA」等々の動きになる。ま、骨格などからして私はポリネシア系遺伝子の系統だろうし、台湾あたりを経由地にして日本列島にカヌーで渡ってきた人々の末裔のようである。もちろん遺伝子だけで人間のあらゆる性格が決定される訳ではなく、成長過程から現在まで獲得したものごとも、固有の律動に反映して創作物を特徴づけているはずだ。前者が先天的要素、後者が後天的要素だ。私以外の人もまた、それぞれに固有の律動が踊りになって現れるだろう。
アフリカ系アメリカ人のR&Bのグルーブに強く惹かれるヨーロッパ系アメリカ人のミュージシャンは多いが、彼らがR&Bを演奏するとどうしても別物になる。アメリカ人に限らず、アフリカ系以外の人々が演奏しても別物になる。この、ヨーロッパ系の人々が演奏するR&B、そこから派生したロックを、他の系統の人々が演奏しても別物になる。たとえば、エリック・クラプトンがブルースに憧れとことん追求したけれど、アフリカ系アメリカ人そのものと言えるブルースにはならず、本人も自覚した上で独自のグルーブの上に立った演奏をしているようにだ。
R&Bのグルーブは譜割り通りの規則正しいリズムではなく、付点音符(音符の「たま」の右に点を添えたもの)で元の音符の1.5倍の長さを基調にしたもの、厳密に言うなら1.5倍でなく1.2等の微妙な長さを基調にしたものだ。さらに、この付点音符が小節内で規則的に揺れ動く。ロックのグルーブは、基本的に譜割り通りの正確な拍が基本となっている。ここにR&Bのニュアンスが混じり合いノリが生まれる。アジア系の人がR&Bあるいはロックのグルーブを演奏しようとするとき、意識または無意識にお手本を気にするケースが多いように感じる。
特定の音楽、美術、文学などのジャンルに憧れ、鑑賞するのが好きだとしても、自分の律動とは違うものだった場合どうしても創作物は真似の域を出ない。また、絶えずお手本を意識せざるを得ないので、創作しているとき「自由」を感じることができない。写真を撮影したり現像したりしているとき、どこか頭の片隅に自分以外の誰かの影がちらつくなら真に自由な状態ではないのだ。これでは楽しくないし、いつまで経ってもお手本以上のオリジナルをつくることができない。
内なる律動(グルーブ)を裏切らず律動(グルーブ)のまま表現するのが、ハッピーである独創の世界に至るにはこれ以外に方法がない。
律動は、前へ前へ進む性質のものだ。音楽では時間軸をどのように進むかだ。静止した状態を完成形とする写真を含む美術で、前へ進むとする概念は適切でないと感じるかもしれないが、安定と破綻によってかたちづくられる動感と言えば理解してもらえるだろうか。構図に止まらない安定と破綻の塩梅である。写真には多様な表現手法または分野があるけれど、つまらない写真は共通して「前へ前へ進む性質」がない。写像が画面からはみ出そうとする力と、物理的制約である画面が抑えつけようとする力の拮抗関係にスリルがない。絵画的に安定したテーマ・写像・構図であっても静かな拮抗関係が読み取れるので、ここに注目して古典作品を見直してもらいたい。
もちろん、誰かと似たテーマ・写像・構図が自分の内心から湧き上がり、同じ系統の作風になっても不思議ではない。写真を撮影しているとき真に自由に、内なる律動のまま奔放になれるか、奔放であったかが重要なのだ。
Fumihiro Kato. © 2016 –
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