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新機能[空の置き換え]
写真の現像、調整、加工はソフトウエアの機能が高度になった恩恵を受けて、その機能が何を実現するか理解したうえで、経験を積んで味つけの程度を会得しセンスが養われることでフィルムをつかっていた時代の名人級の表現がやすやすと可能になった。
これら機能には「自動化」がゆっくり進行していたし、UIのボタンをクリックするだけで達成できる機能もあるが、現像ソフトLuminarが理想の空の様相へ画像を置き換えるAIを実装したことで、写真の現像・調整のみならず撮影さえも(なにもかも)一変させかねない状況にまでなった。
Luminarの機能は賛否両論を呼び、なかには嫌悪感さえ抱く人が現れたが、そうこうしているうちにAdobe Photoshopに[空の置き換え]機能が実装された。Luminarがそうであったように、Photoshopでの操作もまた現像する人は「どの空を選択して置き換えるか」を考えればよいだけだ。
操作は
1. 空を置き換えたい画像(RAWデータも可)を開く
2. 空の画像を用意するかAdobe Photoshopがテンプレートとして用意している画像を選択する
3. AIが元画像の空と他の部分の境界を認識し、空を置き換える
これで完了である。
このときPhotoshopは元画像を[背景]として[描画色]・[描画の照明]・[空]と3種のレイヤーを生成し、3種は通常のレイヤー同様の操作を加えられる。ただし何も操作しなくても切り抜きは自然であるし、空の状態に見合う照明効果(明るさや色温度等々)が加えられて、うるさいことを言わなければ十分な状態に仕上がる。動作も軽快そのもの。
使用例
以下の写真は、毎度撮影している某所で撮影直前にチェックのためシャッターを切ったテストカットを[空の置き換え]で加工したものだ。どれが無加工の写真かわかるだろうか。このカットの奥に空を電線が横切っている部分があるのだが、こうした箇所の抜きあわせがちゃんとできているだけでなく、前述のように[描画の照明]効果が効いているので撮影した私でさえ騙される可能性を感じる。
もったいぶっても馬鹿馬鹿しいだけなので答えを書いておく。上掲画像のB(上から2枚目)が無加工の空だ。
使ってみて思うこと
写真のデジタル化によって、写真撮影の意味、写真そのものの意味が激変したとこれまでも指摘してきた。これは撮影する人、写真を何らかの目的で使おうとする人だけでなく、写真を見る人にとっても意味が変わった。この変化は、(想像でしかないが)ダゲレオタイプ、湿板、乾板、フィルムと技術革新が進む過程で生じたものとは質的に違うものだろうと思う。
今回紹介した技術が実装される前から、写真中の一部を別ものに置き換えることは可能だった。フィルムで撮影して切り貼りによるアナログ作業で実現することも可能だったし、撮影後のフィルムまたは紙焼きをスキャンしてデジタルデータにしたうえで加工する方法もあった。後者は、デジタル撮影されたデータを使う場合と作業そのものは同じだ。
しかし、いずれの方法も一朝一夕に可能なものではなかった。多くの人が不要な箇所を抜く作業で挫折するだろうし、端から無理とあきらめていた。この過程を突破できても、自然な描写にならず違和感が際立って失敗することが多かった。ところが[空の置き換え]の実例で紹介したように、作業は簡単、適用する素材そのものの現実味は別として合成結果は上々で、どれが元画像かわからないくらいだった。
ここに至るまで、マスクを使用して画像中の一部の調子(トーン)や色調を変えるのが珍しくもない作業になっていたし、余計な写り込みを消すのも、一部を切り抜いて素材化するのも簡単に実現できる作業になっていた。[空の置き換え]が実装される直前のPhotoshopのバージョンでは被写体を自動的に選択する機能が向上しただけでなく、簡単な手作業で完璧に被写体の範囲を指定する機能が実装されていた。
これらは部分調整であれ切り貼りであれ、撮影時に撮影者が見ていた状況と違う像を生成するものだ。主観的に変えていると言えるし、理想化しているとも言える。このように考えると[空の置き換え]も何ら変わらないものだが、あまりに簡単かつ完璧に様変わりした画像を前にして私は戸惑いを覚えている。
情報の質、写真の意味を1クリックで操作できる時代へ
[空の置き換え]で雲のかたちや濃度が理想形に近づくのはさほど衝撃的ではない。雲のかたちまでは無理だが空の調子を理想形にするのは、これまでもいくらでも可能だった。[空の置き換え]機能は、時刻、天候、なんだったら方角さえ別物になる点が撮影におけるロケーションや時刻等の最適化とは何なのかと問いかけてくる。
空だけとはいえ、屋外撮影で「空」の影響ははかりしれないものがある。
たとえば、先ほど例示した写真から三脚を消した画像をつくり比較してみる。
次に三脚を消した画像に、この場に存在しなかった簡易倉庫を切り貼りしてみる。切り貼りの結果は敢えて精緻化していない。
三脚が消えたり、簡易倉庫が切り貼りされて元写真との間で情報の量が変化している。情報の量は変化したが、元画像のロケーション、撮影時刻、天候等の見た目が支配的だ。あくまでも、この場所から何かが消えたり何かが加わったりしているだけである。
でももう一度、[空の置き換え]機能を使って空の様相を変えたカットを見てみよう。
これは空の変化が顕著な例だが「情報の質」がまるっきり別物になっている。撮影時刻や撮影時の天候の選択は、情報の量ではなく「情報の質」を思惑通りにするため選択しているのだから、[空の置き換え]機能と部分の消去や単純な切り貼りは意味合いがまったく違って当然だ。
写真撮影のうち風景・景観撮影や人物の屋外撮影は「その場に出向くこと」「その現象に立ち会うこと」から始まっていたし、こうして撮影された結果への評価だけでなく、場に出向いた人・現象に立ち会った人の行動への評価も無視できないものがあった。
早朝に、深夜に、悪天候時に、危険な場所に……と出向いて現象=真実に立ち会ったカメラマンという評価、偶然であっても一期一会を無駄にせず作品化できたカメラマンという評価はかなり大きいものがある。だから何かを消したり切り貼りすることすら、それはCGであり「写真的ではない」とか「ずるい」と言われてきた。
写真は、その場で実際に発生しているままを機械的に平面像として記録する点に価値があるとされてきた。「決定的瞬間」とか戦場や紛争の場に身を置くカメラマンなどが写真の価値と結びつけられ世間で語られがちだし、そこまででなくてもSNSでバズる写真とは「その場に出向くこと」「その現象に立ち会うこと」「これらによる珍しさ」によって成り立っている。
いっぽうデジタル写真になっても写真の加工で許されるのは落ちているゴミを消したり、顔のシワを目立たなく処理する程度の範囲だけだった。顔のシワ取り程度でも、加工だ捏造だと面白おかしく騒ぐ輩がいる。実際にはシワ取りだけでなく映画のクロマキー処理のようなものもごく当たり前に行われていてもだ。
LuminarにしろPhotoshopにしろ[空の置き換え]は、「その現象に立ち会うこと」の価値をほとんど無にしたと言える。その現象に立ち会ったことは、撮影者の勲章でも特権でもなくなった。わざわざ早朝、昼間、夕暮れ、深夜、特定の天候にあわせて撮影しなくても、これらの情報を持った写真をつくり出せるのだ。前述したように、これら「情報の質の違い」は表現意図、表現効果、写真の意味を決定づける最重要な要素だ。空は単なる背景ではなく、主題を決定づける要素、撮影する意味の根幹なのだ。
だから、あまりに簡単かつ完璧に様変わりした画像を前にして私は戸惑いを覚えている。そしてAdobeにとって[空の置き換え]機能は、Luminarが先行して実装したのに対抗して(社内でかなり枯れていた技術を)出してきたに過ぎず、同バージョンのPhotoshopに実装された[ニューラルフィルター]では人物の表情、年齢、ポーズをスライダー操作だけでほぼ完璧に変更できるように、情報の量ではなく質を根本的に変化させる機能は近日中にさらに多様に高度化するはずである。
こうなると世間の人々の写真の定義や目の前に提示された写真を見て何を思うかが、2020年の秋時点と来年以降ではまるっきり違うものになっても不思議ではない。写真術の発明と登場で絵画の位置付けががらっと変わったように、デジタル化ですでに様変わりした写真が今また瓦解とも言えそうな規模で変化するかもしれない。
その写真の価値は誰がつくり出したものか
[空の置き換え]機能は置き換えであって、無から有を生じさせるものではない。おかしな例えかもしれないが、惣菜売り場でとんかつを買ってきて自宅のキッチンでカツ丼に作り変えるようなものかもしれない。玉ねぎを刻み玉子を溶いて割り下でとんかつを煮るのはあなたの作業でありロケ地に出向いてシャッターを切る行為、惣菜売り場でとんかつを買うのはLuminarやPhotoshopの[空の置き換え]機能をクリックする行為だ。
前段落の最後に示唆したように、撮影者にとっても、見る人にとっても写真の価値の在り処と価値そのもの、意味そのものが変わる。今後は「玉ねぎを刻み玉子を溶いて……」の部分つまり「シャッターを切るまでの行為」に必要な選択、行動、技能、センスがどんどん要求されなくなる方向へ進むだろう。いまはまだ実現されていないけれど玉ねぎなど素材を用意したらあとはほぼ自動でカツ丼の具ができあがるような機能へ、各現像ソフトとPhotoshopの写真加工機能は突き進む。写真を見る世間の人も、さっそく[空の置き換え]や[ニューラルフィルター]の機能を知り、撮影者の関与だけでけでなく技能が要求される度合いが低くなっているのを知る。
現段階では空の素材を使って元画像の空を置き換えているに過ぎないが、いずれロケーション、スタジオといったものから、下手したら被写体までを自動生成して最適化するところまで到達するだろう。二次元の画像、RAWデータから立体を推測してライティングを実現したり置き換える技術も実装される日があるだろう。これは「惣菜の素」を使って料理するレベルを超えて、冷凍食品を解凍して食卓に載せるのとほぼ変わらないと言える。
カツ丼の具は、豚肉をトンカツに揚げて、玉ねぎを割り下で加熱したところに加えて玉子でとじてつくる。これがかつての撮影であり写真だった。では「惣菜売り場でとんかつを買ってきて自宅のキッチンでカツ丼に作り変える」のと「玉ねぎなど素材を用意したらあとはほぼ自動でカツ丼の具ができあがる」のと「冷凍食品のカツ丼の具を解凍して食卓に載せる」のを3段階として、写真撮影に置き換えたときどの段階までが撮影者がつくり出した価値ある仕事と言えるのだろうか。
写真がフィルムを使うものからデジタル化されたときはっきりしたのは、露出と色再現、パースのコントロールなどに技能が要求される時代が終わり、撮影者の価値は職人的である点よりプランナー的な能力、もしくは体力や瞬発力など別方向を求められるようになったことだ。あるいは別ジャンルでそこそこ名の知れた人が撮影するほうが、撮影の専門家より重宝され商業的に評価される傾向が強くもなった。人気者をキャスティングして撮影を説得するプロデュース能力が撮影そのものより評価される時代でもある。
いずれ「冷凍食品のカツ丼の具を解凍して食卓に載せる」ような写真の時代になったとき、撮影者がつくり出す価値は構想や当人のネームバリューといったものになる。すべてがそうでなくても、こうした傾向は現段階からさらに強くなるだろう。撮影とは「素材のサンプリングにすぎない」という時代の到来を、どう迎えるべきか考えなければならないのだ。
写真家、撮影者といったものが「発見者」「報告者」であり、報告や表現のため技能の高度化が必須で、ここにセンスまで要求されていた時代はもうない。「発見者」「報告者」に特化するか、プランナーかプロデューサー型に特化するか、どこに価値を生み出すか問われている。
© Fumihiro Kato.
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