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この記事は標準的な露出値、標準露光量などとされるものを検討し、何を基準にどのように露出を決めるか考察しています。考え方を中心にまとめた記事ですが実用に向けたアイデアもフォローしています。オート露出でもきれいに撮影でき、ストロボ多灯や日中シンクロも自動化できる時代です。では、それで十分な表現ができているでしょうか。過不足なく撮影できているように見えて肝心な部分の詰めが甘くなってはいないか、じっくり点検しているでしょうか。標準的な露出値というワードを核にして、露出値決定の実例を挙げつつ表現の詰めについて説明します。
デジタル化で露出値決定は簡単になった
カメラに露出計が内蔵されているのがあたりまえの時代であるし、その露出計が示す値で撮影して大失敗なんてほぼあり得ないくらいカメラに内蔵されたメーターは便利このうえないものなのは間違いない。さらに写真がデジタル化されてからというもの、RAWデータを使っての現像はフィルムと比較できないほど柔軟性が増したからますます露出の大失敗はなくなった。
いま写真撮影はフィルムを使用してきた過去と比較して技術的に別物の作業になったのではないかとすら思う。
私だって歴史上の手法と言える湿板写真について知識として知っているだけであり、現代はデジタルデータを扱う撮影法が主流であって、ほんの10〜20年前まであたりまえだったフィルムとフィルムカメラへアクセスするのさえ難しくなっているのだから、人々はフィルムとは違うデジタルの特性を生かしたやりかたで撮影して当然だ。
そして冒頭に戻るが、フィルムの時代と比較してデジタル化された現代の撮影では露出値の決定がとても大雑把になった。デジタル化されて以降に写真デビューされた方は「気を使ってますよ」と言うはずだが、とても気楽になったのは間違いないし、それを私は別に責めているのでもないのはわかっていただけると思う。便利で気楽になった分を、もっと別のなにかに神経を費やせばよいのだ。
「いやいや、そうじゃないんだよなあ」と言う人は、単体露出計を使ったりカメラのメーターをスポットに切り替えてマニュアル露出で撮影したり工夫しているのだろう。とくに測光を意識していない人でも、オート露出の出目をプラス側、マイナス側へこまめに変更するのはよくあることだ。
つまりカメラが示す露出値はいつも正しいとは限らず、いくらRAWデータとRAW現像に柔軟性があっても適切な露出値で撮影したほうが結果がよいとする考え方はかなり一般的と言える(もちろん、こういうことに頓着しない人だっている)。カメラ任せでも大失敗なんてほぼあり得ないけれど、ときどき心配になるということか。
では、その適切な露出値とは何なのか。その適切な値を決定するにはどうしたらよいか。と、なったとき明確な答えが用意できているだろうか。
カメラ任せにするにしても、これを否定するにしても、何をもって適切な露出値とするか明確にできないなら「標準的な露出値」とされるものの周囲を徒らにぐるぐる回っているにすぎない。オート露出の出目のプラス側、マイナス側への変更も適当な操作になりかねない。
適切な露出値への明確な答えについて、どうしても機械的であったり規格であったりの説明をこれからしなければならないが、最終的に行き着くところは表現意図と感覚の話にならざるを得ない。テクニックについての読み物を期待する人には肩透かしかもしれないので念の為注意しておく。
カメラの露出計は2系統
標準的な露出値とは反射率18%の物体があれば濃度18%に撮影できる値であると知識として知っている人は多い。濃いグレー色の板を測光して出目のまま撮影したら、撮影した板の濃度と等しいグレーの像が記録されるということだ。(白いものが白く、黒いものが黒く撮影できる露出の決め方についてはここでは説明を省く)
まずはカメラ内蔵の露出計を考える。
反射率18%で示される明るさ・濃度とは、この世界に存在するあらゆる物体やあらゆる状況の光線や反射の平均値とされるもので故に平均反射率と呼ばれる。
「目の前にある様々なものは、ここを照らしている光の強弱の加減によって反射する光の強さもまた変わるので明るく見えたり、暗く見える」という考え方を出発点にする。調光機能つきのライトひとつで真っ暗な室内を照らして行くのを想像してもらいたい。室内にあるテーブルの色・濃度は一定だが、調光機能でライトを操るたび真っ暗な塊からあかるい物体へ見た目が変わるだろう。
次に「だったら写真を撮影するとき物体はどのような明るさで見えるようにすべきか」となる。先ほどの調光ライト付きの部屋の例えで言えば、調光機によって光をどの強さで固定するかでもよいし(ライティング)、カメラ側で絞りとシャッター速度をどのように設定するかという話でもよい。これが露出値の決め方である。
「どのような明るさで見えるようにすべきか」への答えが「それなら反射率18%の濃度ってことにしておきましょうよ」とするのがカメラにも内蔵されている反射光式露出計のロジックだ。テーブルに寄って測光したり測光範囲をスポット状にしてテーブル主体で測光したなら、「テーブルを反射率18%の濃度ってことにしておきましょう」だ。部屋全体が画角に収まっているとき平均的に測光しているなら「部屋の全体を反射率18%の濃度ってことにしておきましょう」だ。
「それなら反射率18%の濃度ってことで」としているだけなので、テーブルも部屋全体も実際に反射率18%相当の濃度をもつ色であるとは限らない。そもそも18%のグレーはかなり濃い(暗い)からこのような色調のテーブルはありうるかもしれないが、室内の壁などを18%グレー相当するのには無理があるように誰もが感じるだろう。そんなので大丈夫? と。
「それなら反射率18%の濃度ってことで」はとてもいい加減な方法だが、屋外つまり自然界を撮影すると空から地面、あるいは水面、さらに植物、岩や石、その他が画角内に入り、ここで見えているものを「それなら反射率18%の濃度ってことにしておきましょうよ」として露出値を決めると、肉眼で見る風景を大きく裏切らない写りになる。さらに人類の皮膚とくに顔の描写も問題なかった(皮膚そのものを18%の濃度で表現すると、色素が薄い人たちにとっては色濃く描写され血色がよい健康体な見かけにさえなった)。それならこれでいいことにしておこう、となった。分割測光、色ごと判定して評価する測光などが実装される時代になったが基本のキではこのように露出値を決めている。
ところが、だ。
ここまでの説明と矛盾しているように感じられるだろうが、カメラの露出計はかならずしも反射率18%の物体があれば濃度18%に撮影できる値を示すものではないと考えるべきだ。濃いグレー色の板を測光して出目のまま撮影したら、そのままの濃度のグレーとして記録できるとは限らないということだ。こうした傾向はデジタル化以後とくに顕著になった。
露出計には反射率18%の物体があれば濃度18%に撮影できる値を示すようにする規格と、メーカー独自の考え方に基づいて適切と思われる濃度に撮影できる値を示す規格がある。濃度18%に撮影できる値を示す規格を採用しているカメラメーカーであっても、(厳密に検証しにくいのだが)違うのではないかと私は感じる。これは評価測光の影響というか恩恵なのではないか。
しばしば「オート露出で撮るときは、カメラ側の設定をマイナス(もしくはプラス)X段にしておくと明るさの感じがちょうどいいよ」と言う人がいる。これはこの人の感性がどうこうではなく、カメラメーカーあるいは機種ごとかなり違いがあるから一般化できない話なのだ。更に言うと、詳細は後述するが同じカメラで撮って出しか、撮って出し程度のRAW現像操作の場合に限られるアドバイスだ。
デジタルカメラではセンサーの特性が変われば明暗・濃度の描写がかなり変わる。応答特性が違うと表現するのが正しいのかわからないところはあるが、トーンカーブを操作したときの変化に似ているように感じる。こうして全体的に明るめになったり暗めになって感じられるのなら露出のかけかたを変えなくてはならない。
応答特性だけで言えばフィルムにも大きな違いがある。化学的かつ不可逆の処理で現像するフィルムは明るさに対する濃度の反応を厳密に管理されていて、プロラボにフィルムの乳剤番号と露出計数が書かれたお知らせが貼り出されていたのを記憶している人もいるだろう。しかし応答特性のガンマ値が高いリバーサルフィルム(ポジフィルム)は、明暗差が極端かつ濃度が高く描写されるため露出値についてカラーネガやモノクロフィルムと等しく扱えなかった。
ではデジタルがあたりまえの時代の写真撮影にとっての標準的な露出値とは何か、何を信じて撮影したらよいのか。
標準的な露出値ではカバーしきれないケース
単体露出計はメーカーごと独自性を出しても迷惑なだけなので、計測機器として反射率18%の物体があれば濃度18%にほぼ撮影できる値を示すようになっている。では、入射光式露出計(乳白色の半球で測光する方法)で計測した値のまま撮影するなら、わざわざ単体露出計を持ち出してきているのだから出目で撮影して間違いなしなのか、それとも違うのか。
ここではっきりさせておきたいのは、標準的な露出値なんてものは概念上の存在でしかないし、どのような濃度の写真にするか意図次第、スタイル次第、被写体次第だ。
さて簡単に入射光式露出計がなにをもって露出値を示すか説明する。カメラの露出計=反射光式露出計を説明するとき「目の前にある様々なものは、ここを照らしている光の強弱の加減によって反射する光の強さもまた変わるので明るく見えたり、暗く見えると考える」とロジックの第一段階を説明した。反射光式露出計では名前の通り物体が反射している光を測光したが、入射光式露出計は「まずは光の強さそのものを測ろうぜ」となって撮影しようとしている物体のレンズに向いている側に差し込む光を計測する。ようするに写真に撮影される側にどれだけ光が差し込んでいるか計測する。
反射光式では「被写体はいろいろな反射率のものが混ざっているけどどうしよう……」となったが、入射光式では「差し込んでいる光の強さを基準にすれば、どんな反射率のものがあっても見ため通りになって問題ないだろ」と割り切りがよい。ただし露出計は光量だけわかっても意味がなく露出値を求めるための計測機器なので、絞りとシャッター速度の組み合わせに落とし込める値(EV値)や絞りとシャッター速度そのものを示さなければならない。このときの基準が、反射率18%の物体があるとして濃度18%に描写できる値を弾き出すようにしている。
以下の写真は、黒い花をつけたカラーという植物を撮影したものだ。黒い花は厳密に言えば赤の濃度が煮詰まるほど濃くなった色をしている。ただし花の上部から内側は漆黒と言ってよい色で樹脂や鞣し革のような光沢がある。RAW現像にあたっては彩度を下げたほかコントラストを少しあげている。シリーズ化している作品なので、絵画で画風に相当する部分は撮影前から決まっている。ライティングはサイドと、花の上面の光沢を出すもので基本形をつくっている。
上掲の写真の撮影で問題になったのは、花と茎の色(明度と反射率)の違いだ。
出目のまま撮影したものを同様に現像すると以下のようになる。入射光式のメーターは花に対してレンズ側正面で測光している。メーターの出目で撮影して、作風にそった処理をすると花の側面が真っ暗に描写され、これは肉眼で見たときの印象と大違いだし、表現意図からしても理想と程遠い描写になる。彩度を下げコントラストを少しあげる処理は、この作品のキモであり前提となるものなので、多少の変更はできても軟調にして暗部のトーンを出すわけにはいかない。そこで花の側面を理想的にする露出値を被写体全体に与えてみると、こんどは茎の濃度が肉眼で見たときの印象をはるかに超えた明るすぎる表現になり、これもまた表現意図と一致しない。
完成形では花の側面部分に補助光が回るようにしたうえで右側の花の上部のてかりを抑制する工夫をしているが、上掲の写真はこれらを施していない調整前なのでかなり見た目が違う。
順序は逆になったが、露光チェックの仮撮影では以下のような状態だった。前述のRAW現像処理をせずストレートに画像化したものだ。テザー撮影なので、PCのディスプレイに表示されていた状態がこのような感じだった訳である。
単体露出計の入射光式メーターは、反射率18%のものを18%の濃度で描写させ同時に白は白、黒は黒となる値を示すはずだ。しかし撮影結果が肉眼による見た目と違うのは、物体の反射率や色の特殊性や、人間が恣意的にものを見ている(見たいように見ている)せいであったり、表現意図ととも関係しているし、前述のようにカメラのセンサー等に起因する応答特性とも関係する。(植物の花びらは可視光線外の波長を大量に反射させるものや、特定の波長を吸収するものがあるなど、太陽光か人工光かによっても、肉眼かフィルムか、はたまたデジタルカメラのセンサーかによっても色や濃度の表現が変わるのは憶えておいて損はない)
こうした状況ではライティングで問題を解決することになる。こうした状況とは、画面内に分布している濃度の比率を変えたいときだ。黒い花の例では、花は明るく、茎はこのまま、背景もこのままにしたい。
この撮影はストロボを使用しているので、絞りを開けて花を明るくしようとすれば他をひっくるめて全体の明るさ・濃度が変わるだけだ。逆光時に人物の顔を明るく描写したくなりプラス補正をかけると、背景も補正した量だけ明るくなるのを思い出してもらいたい。したがって花の側面を理想通りに描写するように光を加えるか、茎側を遮光して対応するかは容易に実現できて完成度が高くなる方を選ぶほかない。
さて、標準的な露出値とは何であったか。
標準的な露出値とは、幅広い撮影対象のなかで限られたものに適応する「標準」にすぎない。撮影者の感覚と意図次第では更に限られたものにしか通用しない。
黒い花を撮影した写真の例から
1. 被写体の色、反射率などによっては肉眼の印象とかけ離れた濃度で描写されるものがある。
2. 意図次第で、どの部分を、どの濃度にして、どのくらいディティール(トーン)を出すか判断が分かれる。
3. 意図次第でRAW現像時の操作が代わり、操作が変われば自ずと写真(画像)の明暗の様相が変わる。
これらが理解されるだろう。標準的な露出値なんてものは概念上の存在でしかないとする所以である。
つまり標準的な露出値とは「正しい値」ではまったくない。アタリ、ハズレが少ない露出決定法の決定打だが、ハズレたり意図を反映できない結果となる場合もまた多いのだ。
きれいな写りだ、かっこいい写真だと写真を見てくれた人は褒めてくれたとしたら、これが評価であり結果なのだから褒められた人は胸を張ってよい。でも念の為、意図の反映が十分だったか写真の隅々まで点検すべきだし、これは写真を公表・公開する前に済ませておきたい。神は細部に宿ると言う。見る人が見れば「写真全体はかたちになっているけど、どうしてXXXXの描写をこれでよしとしたのだろう」となることだってあり、はっきり言われないだけでこのように思って通り過ぎる人がけっこういる。
後付けの言い訳ではなく、堂々と根拠を言えるほうが自分にも他人にもよいはずだ。
私は黒い花の描写を実例のようなディティールにとどめるまでに数作現像違いを作成して検討した。ライティングの強さの0.3段分以下とかRAW現像ソフトのUIにあるスライダーをほんの少し動かすだけの変化はわずかなものだけど、それだけで写真に決定的な違いが生じるものだ。
標準なんてものはない
現代のカメラ使用者にはピンとこないだろうが、かつてカメラのファインダー内表示は文字通りメーターの針がぴこぴこ動いていて、これを特定の位置に合わせるよう絞りやシャッター速度を変更したり、絞りやシャッター速度を変更すると動くもう一本の針というか目印と重ね合わせる操作をしていた。
現代でもマニュアル露出をするならファインダー内の液晶表示を使って、プラス・マイナス0の位置にスケールを移動させたりする。
過去の写真撮影の教本には「メーターの針をぴったり合わせることにばかり神経を使うな。多少ずれていても問題ない」と書かれていた。これを読んだはるか遠い昔の私は、それでも針の位置合わせを適当にできずシャッターチャンスを失った。身を以てアドバイスの意味がわかるようになったのは、その数年後フィルムを自家現像し焼き付けもするようになってからだった。
標準的な露出値とは「正しい値」ではまったくなく、アタリ、ハズレが少ない露出値でしかないから多少ずれていても問題ないため「メーターの針をぴったり合わせることにばかり神経を使うな」なのだ。そしてデジタルデータほど柔軟ではないが、フィルムから印画紙への焼き付け時に覆い焼き、焼き込み等の手法を使ってある程度の範囲で濃度違いは吸収可能だった。こうして撮影され、こうして現像・焼き付けされた写真がちゃんと通用した。
だからいまだにPhotoshopのアイコンに焼き込みをするときの指のかたちや、覆い焼きをする道具がつかわれている。
これをデジタル的に解釈すると、カメラが示す露出値のままに撮影してRAW現像で部分修正(または暗部、明部ごと明るさを調整する機能を使って修正)する方法でも別に問題ないとも言える。フィルムの時代から覆い焼き、焼き込み等々の手法はもちろんフィルム現像で時間や攪拌等を操作するのはあたりまえのことだったのだし、RAW現像ならより柔軟により自然に濃度を調整できるのは冒頭に記した通りだ。
前掲の黒い花の写真で言えば、私の意図を反映した完成形の花の描写よりももっと明るくする操作さえ可能だ。もちろん私の意図した明るさに現像時にびったり変えられるとも言える。これで十分なら現像で後処理する前提の撮影で問題ないが、そういう訳にはいかない「いやいや、そうじゃないんだよなあ」のケースもまた多い。
暗くつぶす側への操作は違和感がすくないか、まったく問題ないが、明るくする側への操作では締まりが悪くなるほかディティールの不自然さや、ノイズが目立つ弊害が出やすい。細部をかたちづくるデータ=ディティールがないまま明るくするのだから当然だ。暗くつぶす側への操作は、ディティールが見えなくてあたりまえなのだから不都合に繋がらない。
標準的な露出値というものは測光する際の手順の一過程にすぎないとしたり、まったくどうでもいいものとしていいように思う。もちろんアタリ、ハズレで大きな差が出ない無難な撮影法として活用できるのは写真の歴史が証明しているから有効に使える場面だってある。
そして結論は「写真表現上で必要な濃度は自分が決める」だ。
前記した
1. 被写体の色、反射率などによっては肉眼の印象とかけ離れた濃度となって描写されるものがある。
2. 意図次第で、どの部分を、どの濃度にして、どのくらいディティール(トーン)を出すか判断が分かれる。
3. 意図次第でRAW現像時の操作が代わり、操作が変われば自ずと写真(画像)の明暗の様相が変わる。
のうち、[1]は被写体次第であるのを意味し、[2]と[3]は撮影者の主観に関わるものだ。カメラや単体露出計が察してくれる訳がないから、被写体に応じて撮影者が対応しないかぎり写真表現上で必要な濃度は実現できないのだ。
いつものように理屈っぽい説明になったが、ポートレイトで人物の皮膚を表現するときどのように考え何をしているか思い出してもらえれば話が早いかもしれない。反射率18%の肌色表現とは、東アジアの少年が夏の海で遊びまわってこんがり日焼けしたくらいの濃度またはもっと濃い濃度かもしれない。ポートレイトでは人物の内面や迫力描写、状況説明などで男女問わずこのくらいにするケースがある一方で、ここから2、3EVぶんくらいは余裕で色を浅くする表現がある。このようなコントロールこそ「写真表現上で必要な濃度は自分が決める」操作だ。
人物表現で上記の差はとても大きいし、意図と反した濃度になったら納得がいかないはずだ。そして1/2段や1/3段違い(や、もっと微妙な変化)の濃度を検討して最善を目指すのではないか。それが今回の私にとっては黒い花だったし、ポートレイトでも人物そのもの以外の箇所であったり、その他のすべての撮影で大切にしたい部分に共通して言えるのだ。
© Fumihiro Kato.
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