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本年最後の更新になるだろう。
この駄文は2019年の話であるし、2020年からについても触れざるを得ない。
2019年は大きな痛みの後、追い討ちの痛打を受けるような一年だった。つまり何もかもわかっていたものごとが、もっとはっきり目に見えるかたちとなってあちこちで噴出した。
こう書くと救いようがない気持ちになるけれど、実際のところ私個人としては数十年ぶりに小学一年から二年生いっぱい、三年にあがる春の手前まで暮らした新潟を訪ねたり、そこで新たな作品の手がかりと出会ったりと収穫多い一年でもあった。
そして年末になって飛び込んできたニュースが「福島県双葉町の避難指示の一部解除。帰還困難区域で初」であって、2020年3月4日に帰還困難区域の解除が決まった。やっとここまできたのである。
2011年3月11日の震災によって歪み、狂ったものが大いに増幅した8年間があり、これが人の心をすっかり変えてしまったと私は感じる。過去の何もかもが素晴らしかったとは言えないし、あきらかに現代のほうがよいものだってある。だけど、あの日以来劣化し続けたものごとがあまり多すぎるし、劣化したものが人の姿をした化け物となって跋扈しているではないか。
こうした悪しき喧騒に近づくと心と魂をやられてしまうから気をつけているのだけど、ここのところずっと誰かを完膚なきまでに否定するか、全面的に肯定して宗教のように持ち上げ信徒としておこぼれをあずかろうとするかの二者択一の風潮があり、人と人、信条と信条、カテゴリーとカテゴリー、階層と階層、地方と地方などを分断している。
わかりやすさの悪しき追求だよね。白か黒かで敵味方を分別して徒党を組んで安心する馬鹿が大手を振るっているのだ。担いだお神輿が馬脚を表すと蜘蛛の子を散らすようにどこかへ消え、なかったことにして新たなお神輿を担ぐ醜悪さも実にわかりやすい。こんなのばっかりだよね。
わかりやすさで徒党を組むのも、蜘蛛の子を散らすように逃げるのもSNS的でマスコミ的な現象なのだろう。
SNSではアカウトを乗り換えれば匿名のまま別人になれ、別人にならずとも馴れ合っている連中同士言動に矛盾が生じたところでどうってことないだろう。マスコミも報道や表現は消えてなくなるという意識が根底にある訳で、なにかと保存され掘り返され検証されるこのご時世であっても知らぬ存ぜぬを貫き通している。
人間なんていびつな存在であって、正しさばかりで傷のない玉のようにつるんと丸い人なんてあり得ない。ところが傷ひとつだけでも、歪み一箇所だけでもあれば全人格が完膚なきまでに否定される風潮ってなんだろう。
そして誰かの傷や歪みを見つけて否定して、誰かをぶん殴るのが娯楽の人があまりに増えた。こうやって誰かをぶん殴る人は、潔癖なまでに落ち度がないふりをしていて気持ち悪いことこのうえない。
そりゃそうだろうと思うのは、相手の傷や歪みを否定して全人格をまるごと、存在をまるごと否定するのだから、否定する側は潔癖なまでに落ち度がない完璧な人格を装う必要があるだろう。
で、これを醜い年寄りだけがやっているのではなく若者から年長者までやっているのだから目も当てられない。というか若い人のなかにこうした技術に長けている人がいると言うと怒られそうだけど、若い人は時代の空気を読むのが得意だし生き延びる過程で獲得した技術なのはわかるとして、なんか発想の根幹からして変な子がいるのは世の中の貧しさと関係しているのかもしれない。
そういう一部の彼らが大好きな言葉に「老害」っていうのがあるけれど、若いのに老害化まったなしだなあと感じる。
正しさ、正義、健康、モラル、公共、安全とかなんとか、まあポリコレと言い換えられたり、ポリコレの正反対であったりする場合もあって、どちらも他人の欠点をあげつらって息の根を止めるまで殴り続けようとしている。こんなのが2011年3月11日の震災の混乱以来ずっと拡大しているような気もするし、もっと別の理由で別の起点から拡大しているのかもしれない。
分断を意図した揚げ足取りと攻撃を個人だけでなくメディアまたは報道を名乗る人々が率先してやっていて、ほら東北を人柱や生贄のようにして自身の党派性や主義主張を拡散・拡大しようとする輩がいたよね。
そういう芸人崩れがどこかの政党の公認候補となって選挙に出たのも今年の出来事だった。あれが落選し党の凋落傾向に拍車がかかったのはとうぜんである。そして震災後の原発事故を利用してきた報道関係者は、あの候補者に批判ひとつなかったのはお察しの通りだ。
残党はいるけれどひとつの時代が終わったのを知らしめたと言える出来事と後年語られるだろう出来事だ。
実は朝日新聞の販売店の店主というか、下手したらもっと偉そうなスーツ姿の人が黒い車に乗って我が家にやってきて「どうか再度、朝日を購読してください」と頭を下げて行った。本社は大リストラ、販売店は虫の息になっているのでこの年の瀬に購読をやめた家を回っているのだ。
これが全国的な活動かは知らないけれど、けっこうたいへんなことだよね。
私はここ十数年違和感を抱きつつ朝日新聞を購読していたが、いつまでも続いた原発事故にまつわる恣意的に情報を選別したり捏造する報道のあきらかな偏向ぶりに朝日新聞が更生することはないだろうと契約を切ったのだし、いまだに主義主張のためだけの報道ごっこを続けているのだから再契約はあり得ないのだった。
これなんて象徴的だなあと思う。これからはじまる時代の出来事の先触れではないかな。
話を戻そう。たとえば、だ。Aという人や団体や出来事のXの部分は認められないので、Xについてはこうしたらどうだろう、という話が成り立たなくっている。右だろうが左だろうが上でも下でも、異なるものの息の根を止めるためなら嘘だってなんだって使って全否定してシレッとしているというのがけっこう当たり前のことになった。議論は大切と言いつつ、まったく他人の言葉を聞こうとしないのも当たり前。
自分が属することがなかったり、属するのが不可能な集団に対して悪辣さを捏造してまで正義の鉄槌を振るいたい人々が大手を振るっている。正確な情報も分析も関係なく、そんなもの必要ない聞く耳持たないという態度だ。
さらにややこしいのは、こちらが全否定する気が毛頭なく「この部分は認められない」という話をしているのに人格が全否定されたと大騒ぎする輩が増えたことだ。殴られてもいないのに刃物で刺されたかのような過剰反応をする人たちが無視できないほど増えた。
そんなこんなは2020年も続くだろうし、もしかしたら(この国の事情とまったく違うなにかで)オリンピックなんて開催不能になる事態があるかもなあと思いつつも、オリンピックを契機に瓦解するものと増長するもののせめぎ合いが始まりそうだ。もう既に始まってはいるけれど。
そしてよいことかわるいことか、どちらかが爆発的な反応を起こして次のフェーズへ向かうだろう。
誰かを完膚なきまでに潰さないと自我が保てない人。ある部分について忠告されただけで全人格が否定されたと取り乱し、その相手に落ち度を見つけたり捏造したりして息の根を止めようとする人。もう未来はないと嘯くのが、何もできない自分のぎりぎりいっぱいの自尊心を保つ術になっている人。嘲笑うのが癖になって、嘲笑う対象を探し続けている人。これらが、もうどうしようもないどん詰まりに追い詰められるだろう。
本年後半に、ここで二回ほど台風被害にあった千葉の動向について簡単な記事を書いた。現地に赴いて見たこと触れたことの日記にすぎないけれど、つらい局面はあったし未だに癒えない傷があるとしても事態は前進していた。
冒頭に書いたように、双葉町の帰還困難区域の解除も来春はじまる。数年来双葉町に通っている私でさえ、信じたいけれどいつ可能なのか本当に可能なのかと不安視していたものごとが、こうやって現実になっている。
提案がなく、具体策がなく、被害者意識だけ、攻撃的であるだけの狂乱ぶりはもうおしまいなのだ。「おしまい」の意味は、すべてが破壊され尽くして世の中と人がおしまいなのか、マシなフェーズへ移行していわゆるオワコンになるのかわからないけれどね。
他人はどうあれ、私は私が信じてる表現を来年もまた模索し続けるほかない。不条理とかセンチメンタルとか遠い世界とか、浮世離れしたどうでもよいものごとをあいかわらず表現し続けるだろう。それしかないのだし。
© Fumihiro Kato.
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