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フィルムを使用していた時代は、フィルムが進化し微粒子化して高解像なものになっても大判・中判・ライカ判の壁が崩れることはなかった。
1980年代の後半から90年代にかけて、フィルム側の解像性能があがるとともに製版にも革新があって、低感度微粒子のライカ判ポジフィルムからかなり大サイズの印刷が可能になったけれど、そこに注力するなら中判、大判で撮影したほうがいいやという感じだった。でもライカ判しか持ち込めない撮影地もあるのだから安心感がだいぶ大きくなった。
それ以前に、同じ進化したフィルムの銘柄ならライカ判だけでなく他のフォーマットの画質も向上するのだし。
いまどきのライカ判デジタルの高画素機は、大判のなかでも巨大な8×10フィルムを使った場合より高解像であるしトーンも豊富に出すことができる。粒子が見える=ディスプレイでピクセルが見える(いわゆる等倍状態)を同じこととして無茶な解釈をするなら、高画素ライカ判デジタルは8×10フィルムをひと回りからふた回り大きなサイズにしたフィルム相当と言えるかもしれない。
この喩えは与太話だし、フィルムとデジタルを直接比較するのはナンセンスだけど、高画素ライカ判デジタルカメラが中判どころか大判の出番をなくしたところがあるのは事実だ。というか、現代では小型カメラでここまで写るのが写真の常識というか、写真とはそういうものと認識されるまでに至っている。
デジタルカメラから写真をはじめた方々は、APS-C判だろうとライカ判だろうとこれだけ写るのを不思議とは思わないし、むしろこれ以下の写りだったら写真としてひどいと感じるでしょ?
こうなるとフィルム時代のレンズでは解像が追いつかない。パープルフリンジなどデジタル固有の問題も発生する。役立たずの烙印を押されることになる。カメラメーカーとしても新しい革袋には新しい酒を入れるべきだと考え、せっかくの高画素機なのにちっともよくなっていないではないか、むしろ問題が発生したと言われたくないから「過去のレンズは推奨しません」「あたらしいレンズを買ってね」という姿勢を取った。
カメラメーカーとレンズ専業メーカーともに「過去のレンズは推奨しません」「あたらしいレンズを買ってね」としている。だから機材情報を扱うメディアもデジタル対応レンズを推奨した。ときとしてクラシックなレンズのうんちく語りなんかして「イイヨ、イイヨ」と言っているけどね。
私がしつこく検証したフィルム時代の末期に登場したニコンの105mmマイクロDタイプ🔗は、高画素機の先鞭をつけたD800を同社が発表した際に推奨レンズからあたりまえだけど外されていた。私が検証した結果も、万能性なら現行105mmマイクロGタイプだけど、ではもうダメなのかというと使い所がまだあるレンズだった。だから私は用途を決めて105mmマイクロGとともに使用している。
「使い所がまだある」というのは、比較したら劣るところがあるという意味でもある。だから現代において万能ではない。でも「使い所がまだある」から使える。これは私の見解であるし、他の人にとっても使えるレンズかもしれないが、これからはじめてマクロや中望遠に手を出す人にメーカーが推奨できるものではない。
これが高画素機とメーカーが推奨するレンズの関係である。技術革新に伴う進化と、進化への対応としておかしな話ではない。
デジタル高画素化以前のレンズといっても様々である。様々どころか、玉石混交というかカオスだ。したがって「過去のレンズは」なんて主語ばかり大きな話をしても意味はないが、メーカーが推奨せず、続々と新時代のレンズにリプレイスしていった事情を察するのに十分な理由になるだろう。
さてこうなると、レンズは重厚長大化してかつての中判の高級レンズかというサイズになるし(実際にはそれらを超えている)、価格もかなり高くなったし、気分的にもお気楽さがないシビアなものになっていった。私が105mmマイクロDタイプを2万円で買ったのは、所有している現行のマイクロレンズのサイズとお気楽さに問題があったからだ。
カメラ好きの人々の知識が増えたし、いろいろうるさくなった。もちろん誰だって写りがよいレンズを欲しいのである。でも「へぇ、そんな光学方面の用語があるのかあ」なんて驚くくらい、頭でっかちなレンズ評であるとか口コミが増えた。
これらの事情が進行するのと歩みをともにして、90年代頃まであったお安い製品がどんどん消えていった。
消えていった原因としてカメラからエントリーモデルというカテゴリーがなくなって行き2000年代からは高機能な携帯電話(ガラケー)やスマートフォンが写真の入り口かつ日常の機材になった点が大きいが、メーカーは最高水準を追い求め、ユーザーの要求がうるさく厳しくなった構造は無視できないのではないかという気がする。
もともと写真を真面目くさって撮影する人なんてそうそういない。私とか、ここを読んでいるあなたとかは数少ないモノ好きなのだ。しかし以前はもっと緩い感じでレンズ交換式カメラを所有して使っていた人がいた。この人たちはコンパクトカメラで満足していた人と明らかに違う層だった。この市場がごっそりなくなって、モノ好きや口うるさい人のための市場だけ残った。
いま中古屋さんにフィルム時代のペンタックスとかミノルタ、コニカの普及機や中級機がまだ残っている。ニコン、キヤノンでもオート操作に機能を絞ったような機種がある。それ以前の時代ならペトリとかミランダとか。こうした機種がかなり市場に出回っていたのは、緩い感じでレンズ交換式カメラを所有して使っていた人たちがいたからだ。宮崎美子が水着に着替えるX-7のCMがヒットしてカメラが売れたのは、そういう人たちが買ったからである。
いま一眼レフなりミラーレスを買って写真をはじめようとする人の初期投資額と、いろいろ欲が出てきてからの追加投資額は物価上昇分を勘案しても90年代以前よりたいへんなことになっているかもしれない。
高校あたりの写真部っていまどきどうなんだろう。ちょっと心配になる。
だって新品より格段に安いひと昔、ふた昔のカメラやレンズを買うとあきらかに今どきの性能と差がついてよい写真が撮れない気がする。かつてはカメラにエントリー、中級、高級と幅広いグレードが揃い、純正レンズにもエントリー、中級、高級があり、中古で10年前とかもっと昔のレンズを買ってもそこそこ使えたのである。
いまだったら2009年頃に販売されていて廃番になって久しいレンズを中古で買うには、かなりためらいが生じるでしょ? まして1990年代のレンズなら更に(たとえば105mmマイクロDとかさ)。そうそう90年代までならサードパーティーのお安いレンズがいろいろあったし、新聞広告で通販でしか売られていない(性能はもちろんアレだけど)交換レンズなんてものもあった。
高性能な超広角から超望遠まであって、そのうちズームレンズは割安感があって、しかもかつての大判8×10なんかより解像するしトーンも出るのだからすごい時代だ。周辺機材も中華製ストロボとか格安品があるのもすごい。なんだけど、エントリーモデルであるとか中古の意味であるとかが変わったことと、カメラ本体そのものが高額化して機材が重厚長大化しているのは写真をはじめようとか、気軽に関わろうという人にとってどうなんだろうと思うのだ。
ある時代(70年代半ばあたりから90年代あたりまでかなあ)だけ気軽にエントリーできただけで、それより昔々はライカ一台家一軒と言われたのだし、私の感想はピントがずれてるのかもしれない。気軽な需要はスマートフォンに流れて、一眼レフなどレンズ交換式カメラはニッチな市場だというなら尚更ね。
いまさらエントリー機を出したり、ハイレゾ化と別の価値観に基づいた製品をつくったところで、今日までに失った市場というか顧客になりそうな人はどっかへ行ってしまい戻ってはこないと思う。まあだからカメラは売れないのだ。
技術革新に伴う進化と、進化への対応としておかしな話ではない。そうなんだけど、どうなんだろう。

© Fumihiro Kato.
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