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・写真の本質は何をどう見たか
・撮影時や現像時に何をしているのか
・真似っこ写真のアホらしさ
・恥ずかしい道のり
・下手でもいいから
・で、私は? あなたは?
・写真の本質は何をどう見たか
私は常々「写真は撮影者の視線の在り方、世界観そのものを表す」と主張してきた。これを「世界の見かたのガイドライン」とも言い換えてきた。
なんども喩えにした例だけど、モノマネを芸とするタレントのコロッケが野口五郎を真似るとき、実際にはあんなギターの弾き方をしていないし、あんな歌い方もしていないのに野口五郎の特徴をかなり的確に表しているように見える。野口五郎に限らず、他のタレントの真似も同様だ。
こうしたモノマネ芸はコロッケによって開拓された分野で、後に続く他のモノマネタレントも[実際にはそんなことしていないのに、あの人にそっくり]という芸を演じている。コロッケ以前のモノマネ芸は、口癖、形態とどこまでそっくりにできるか具象性の高さを競っていたのである。
コロッケが演じる野口五郎は、野口五郎を鑑賞する際の[ガイドライン]を示している。一回でもコロッケ演じる野口五郎を見てしまうと、このガイドラインが脳裏から消えず、コロッケの視線が把握した野口五郎像を通してホンモノを見るのを避けられなくなる。そして大真面目な野口五郎本人なのに、思わず笑ってしまうのである。
私たちは風景を見るときも他人を見るときも、なんらかの思い込みや傾向で偏向した像を脳内に投影している。
コロッケにとって野口五郎は、ああいう特徴で見えている。しかし、根っからの野口五郎ファンにとってはもっと別の野口五郎像が脳内に投影されている。あなたが大好きなタレントや文化人に対して、他の人は別の印象を抱いているだろうし、もしかしたら醜悪な像を脳内に投影させているかもしれないのと同じだ。
写真の本質は、あなたが何をどう見たか表現するところにある。
・撮影時や現像時に何をしているのか
写真を撮影する際にあなたは、カメラやレンズ、被写体との距離や構図、絞りやシャッター速度等々さまざまな選択をする。そこまで難しく考えるまでもなく、どの方向から、どんな感じに撮影するか直感的に選択している。
こうした選択があるから、「写真は撮影者の視線の在り方、世界観そのものを表す」のだし「世界の見かたのガイドライン」が撮影結果から提示されることになる。
・真似っこ写真のアホらしさ
写真集や写真が掲載されたサイトの影響を受けて真似をするのは、あなたの視線の在り方や世界観ではなく[元写真を撮影した人の視線や世界観」をパクる行為だ。パクるという表現が不適切なら、他人の視線の在り方を模倣しているのだ。
写真の旨味は、絵画のように長年の鍛錬でデッサンを極めるなど技術を身につけなくても、カメラさえあれば自分の世界観を反映した写真が撮影できるところにある。
もちろんある程度の練習は必要だし、あまりにセンスが欠落しているなら[センスが欠落している視線や世界観]を晒すことになる。写真は誰にも比較的簡単に自分の世界観をかなり即座に表現できる媒体で、それなのに他人を真似るなんてバカらしくないだろうか。
自分独自の「世界の見かたのガイドライン」を示せるところが醍醐味なのに。
何でも屋的プロとか、何でも屋的プロに憧れる人は真似っこが上手くなりたいか、真似っこが上手いことが写真のアガリと信じ込んでいる状態なのである。
・恥ずかしい道のり
私の写真は、撮影をはじめた10代はじめから現在まで大いに変わったし、数年単位でもここ1年以内でも変化している。ここには世界観の変遷があるし、自分なりの視線にどこまで忠実に写真を撮影し現像するか熟達度の変化がある。
過去の世界観や、自分はこんな風に世界を見ているけれど表現の熟達度が低くて忠実に表せないというのは、大いに恥ずかしかったりする。
ほら中学二年生くらいに生意気に天下国家や世界や愛を語ったのなんて、いい歳になったとき突きつけられたら赤面ものである。どんな表現形式にも言えて写真に限らないのだけど、表現物をつくるようになったばっかりのときの世界観は、その後も基本的には何ら変わらないものの振り返ると幼稚に見えたりするものだ。
ところが過去の表現物をなかったことにするため捨ててしまうと、自分の足取りや熟達のために進む方向がわからなくなって根無し草になる。根無し草になって不便するのは、「視線の在り方、世界観は一日にしてならず」であり「日々刻々と変化するもの」だからだ。
もう一度コロッケのモノマネ芸に話を戻すが、コロッケという天才は野口五郎に対して直感的に何かを感じ、その違和感だったり共感をあの芸に昇華させるまで何度も微調整を繰り返したはずだ。ここからは想像だが、微調整を繰り返す過程で直感では把握できなかった野口五郎像が再発見されて現在に至っていると思う。
何かに興味を持って写真を撮り始めて傑作ができたと思うそばから、物足りない感じがしてスランプになったり暗中模索の時期になったりして、創作の過程で発見があり次のステップに到達する。自分自身の視線や世界観なのに、過去からの連続した過程がないと忠実に再現できないのである。
・下手でもいいから
写真誕生から今まで、名作と呼ばれる作品はおおよそ二つに分類される。ひとつは正直な点だけが美点の写真、もうひとつは技能とセンスが高度に融合した写真である。
つまり名作の半分くらいは、どこの誰が撮ったかわからなかったり写真家ではない素人が撮影したものなのである。生半可にテクニックを身につけて、そのときどきのトレンドに染まった写真通(もしくは写真”痛”)が自分の感覚に正直に撮影できていないのに対して、かっこつけない素人がよっぽど独自の世界観で世界の本質を撮影しているのだ。
ここが前述した「誰にも比較的簡単に自分の世界観をかなり即座に表現できる媒体」である写真の面白さだ。真っ正直な「世界の見かたのガイドライン」が提示され、世の中はびっくりしたり感心して名作になっているのである。
コンテスト写真なんてものは、主催者やスポンサーの意向次第だったり、媒体の客寄せ商売のためだったりで、なかなか真っ正直な写真は採用されないのだった。むしろ、形式的にまとまりのある議論紛糾したり好悪が分かれない無難でどっかで見たことある写真が賞を獲るようにできている。
無理して前衛を気取るのも正直でないけれど、むしろ試行錯誤の一環としてはこちらのほうがよほど自分自身のためになる行いだろう。もちろん下手でもいいから、自分の視線と世界観に正直に撮影し続けるのがいちばんだ。
写真について言えば、下手か上手いかは実はあまり重要ではないのである。なぜなら、「世界の見かたのガイドライン」を提示できればよい表現だからだ。あなたが撮った写真からあなたの世界観がわかればよいのだ。わからないなら、ダメということだ。
・で、私は? あなたは?
私が10代だった数十年前は、他人の写真を真似るのに忙しかった。だが現在は、もうそんなことをしている時間はないし、そういう真似っこに意味を見出せないのだから自分に正直に撮影している。それしかないのだ。
私は恥ずかしくなろうとも写真を掲載し続けて人目にさらしている。スマートフォンでここを読んでるいるならこのままページをスクロール、PCならページの右横にギャラリーへのリンクがあるから暇な人は見ていただければ幸いだ。
で、あなたはどんな撮影をして、どんな写真を残しているのだろうか。
© Fumihiro Kato.
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