禁じられていないものごとを見つける才能と訓練

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どのような表現すべきかということを考え始めて、自分らしい写真を問い直すと……とコレに行き着くというのが当記事だ。

来春に撮影するつもりのチューリップの植え付けを終えた。チューリップを(小さな変更はいくつもあったが)似た条件下で撮影して、いったい何年になっただろうかと思うくらい繰り返し被写体にしてきた。自分で植え付けるのは、つぼみがついて花が散るまでの変化のなかでいつ撮影したくなってもよいように対応しているのだ。もちろん花屋の店頭に心ときめくチューリップが並べば買って撮影することもある。

これは私が私に定めた手段だったりルールだ。

他人のための撮影でないなら、撮影する私がルールを自由に決めることができる。とはいえ、法治国家に生きているから法がルールとして存在する。法を遵守するのは、他人の権利を侵害せず尊重するためであるし、法を犯すことで自分に不利益が生じるのを避けたいというのもある。私の撮影の私が責任を負うところのルールと法以外については、禁じられる合理的理由がなかったらいくらでも勝手に振舞って作品をつくってもよいと思う。

写真にはくだらないルールがいくつもある。これをルールと呼ぶのは適切ではなく、誰かが決めた何か、自分がそうでないといけないと思い込んでいる何かと言ったほうがよいかもしれない。

法や慣習やルールがはっきり禁じていなかったり想定していない部分を出し抜くことを、私たちは抜け道を見つけると呼んでいる。「法の抜け道を見つける」と言うと、人によっては悪事を連想するしずるいことだと感じる人だって多いだろう。だが「業界の慣習の抜け道を見つけて新たな事業を立ち上げる」なんて言うとちょっと印象が変わる。どちらにしても禁じていなかったり想定されていない部分に攻め込むのだから、これだけで悪というのは早合点すぎる。

抜け道を見つけて何かを行うことが、他人の財産や生命や自由を脅かし奪うのであれば悪事になるが、そうでないなら手段の発見でしかなく善悪とまったく関係ない。実際には、ここまで白黒はっきり見極められなかったり人情に左右されたりしたうえで、新しい手段を採用することになったりあきらめたりするのだけど。

写真はこうあらねばならないとか、この写真分野の撮影や作品はこうでないとならないというのはすべて過去の人が積み重ねてきた思い込みの集積であると思ったほうがよい。もしかしたら過去から何らかの理由である種の人々が嘘をつき続けているのかもしれない。反抗期の中学生ではないので、気に入らないものは何もかもぶっ壊せと言いたいのではない。個人を縛っている思い込みを、いったい何のため存在しているルールか精査したうえで足枷になるものを出し抜くべきだという話である。

写真を撮影しはじめて月日があまり経っていない人は、つまらないルールを「写真を写真として成立させる鉄則」と信じ込んだり、ある種の撮影で定番化している技法を動かしてはならない法律のようなものと疑わないことがある。長年写真を撮影しているのに、これらの権化となって表現の抜け道、誰も手がけてこなかったよい手段の発見ができないならどうしよもない石頭で先がひとつもないと断言できる。

長年写真を撮影しているなら、ルールや慣習がいったい何のため存在しているか撮影を通して精査を繰り返す日々だったはずで、過去の人が積み重ねてきた思い込みをゴミ箱にほうり込めているはずなのだ。少しずつ自由を獲得してきたはずなのだ。

たとえば石頭は、プリントした写真にペインティングするとかPC上で画像編集をかけて作品化するのを「写真ではない」とさらっと言ってしまう。

写真とは何かの定義がどこかに明文化されているわけではない。つい十数年前は、撮影された像がデジタルデータとして保存されてデジタル環境で処理されるなんて想定されていなかったのだからデジタル写真は写真ですらなかった。Photoshopを経由させた写真はCGであって写真ではないと言い張る人さえいたのである。写真の定義は日々拡張されている。

写真を撮影して像を得る行為は、そのつど「これが写真だ」と撮影者自らが定義を主張しているようなものだ。他の人がどう反応するか別として、撮影者が正しいと思うなら自分にとっての「写真」の定義を堂々と主張すればよい。というか、他の人々が安心して「写真」であると納得できる表現は「眠たくて」「つまらない」「過去に誰かが嫌というほど繰り返した」表現なのだ。相手がどう反応するかわからないから、作品を発表するのではないか。

それが写真の歴史のなかにどう位置付けられるか、もしかしたら数十年、数百年の時間が必要になるかもしれない。今日明日の評価や狭い世界の評価は、いつかどこかでひっくり返るかもしれない。

過去の人が積み重ねてきた思い込みをゴミ箱にほうり込んで自由を獲得すれば、自ずと抜け道を発見できるのである。新しい手段を採用できるようになる。もう一度書くけれど、『私の撮影の私が責任を負うところのルールと法以外については、禁じられる合理的理由がなかったらいくらでも勝手に振舞って作品をつくってもよいと思う』

他人が見つけられない手段を見つけることが、もしかしたら写真を支える重要な一つの柱かもしれないとさえ私は思っている。他人が見つけられない手段を発見するのは才能のひとつだ。つまり抜け道をさらっと見つける合理的な考え方ができるのは才能である。

では才能がないなら、石頭人間になるほかないのか。それは違うと思う。まじめに問いかけてまじめに撮影していれば過去の人々がついた嘘や無駄を強いるルールを見つけられるはずだ。日々正直に写真を撮ることの積み重ねが、禁じられていないものごとを見つける訓練になる。

正直に撮影するとは「ほんとうに撮影したいものは何か突き詰める」「お手本の真似っこをしない」「かっこうをつけたり、かっこうを整えることなんて最後の最後へ後回しにして」「ほんとうに撮影したいものを像にする」ことではないだろうか。とてもシンプルな撮影で、自由になるための撮影である、というかこれ以外の撮影ってあるだろうか。

石頭化する日々を送っている人はこれらと真逆の撮影をしているのだろうし、石頭化したくなければどうすればよいか答えははっきりしている。

© Fumihiro Kato.
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古い写真。

・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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