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(2019.4.21)誤記訂正。
適正露出についてちゃんと説明できる人はすくないし、説明できないまま感覚だけで「適正露出に従う必要はない」と言う人も多い。後者はわからないままやっていることを他人に助言している訳で箸にも棒にもかからないと言える。
適正露出とは、フィルムとデジタル問わず写真に限界があるゆえに便宜的につくり出した基準だ。人間は真夏のビーチや雪原の照り返し、月明かりさえない真夜中でなければ環境を見て何があるか判別することができる。ところが写真が記録できる明暗の幅はあまり狭いため、快晴時にちょうどよい露出値で雨の日を撮影するとあたかも夜のような暗い写真になり、モノの質感はもとよりカタチさえ潰れて見えない写真になる。露光量を多くしすぎて明るすぎる場合は白とびする。
また人間は明るさ暗さに順応し、脳内補完も加えてモノを見ている。このため薄暗がりでも目の前のものがどのようなカタチでどのような質感のものかわかっているように感じる。
写真はこの世界にあるものを記録するためのメディアだから、真っ暗につぶれていたり真っ白に飛んでナニがどのようにしてドコにあるのかわからないのでは話にならない。こう考えた昔の人は、露光量の与えかたの基準をつくろうとした。明るくても暗くても、人間の肌が適切に表現されて、他の物体も見た目に近く撮影できる基準をつくろうとしたのだ。
この世に露出計が登場するまで、撮影技法や撮影者ごと曖昧な基準で見た目に近く撮影できる露光量を選んでいたが、明るさを機械で測定する露出計が技術的に可能になるとはっきりした基準が必要になった。
この世界に存在する明るさの中間値18%のグレー相当が、明るくても暗くても18%のグレーとして記録できる値を取ると概ね目的が果たせる。こうして18%のグレーを18%のグレーとして記録できる露光量が「適正露出」と定められた。
物体が反射している光を測定する反射光式の露出計なら、反射光の強さから適正露出となる露出値を示す。物体に当たっている光の強さそのものを測定する入射光式露出計なら、入射している光の強さから適正露出となる露出値を示す。どちらも18%グレーの物体が18%グレーとして再現される値を示し、これが適正露出と呼ばれるものだ。
現実には、撮影しようとしている被写体が18%グレー相当の明度であるとは限らないし、18%グレー相当の明度のものが画角のなかに含まれない場合もある。この世の中の明るさの中間値として18%グレーを基準にしているだけで、風景なら風景全体を平均すると18%グレーくらいの明度になるだろうとしているのだ。
けっこうアバウトではあるけれど、この基準に従うと確かに違和感や過不足が生じない写りになる。雑に言えば結果オーライだ。
もしネガフィルムに記録できる明るさの幅が明るい側にもっと広かったら、適正露出の基準は違っていたかもしれない。というのも世の中に存在する明るさの平均値あるいは人間の肌色の濃度に近い18%グレーとされるが、人間の肌色は有色人種の東アジア人でももう少し明るいかもしれず白色人種ならもっと明るい。ポートレイトで標準露出にプラスした露出量にする場合があるのはフィルムの時代から続いている。
標準露出とされる基準はフィルムが記録できる明るさの幅がかなり狭かった時代に策定され、このときの基準がデジタルカメラにも採用された。ただそれだけの、そういう基準にすぎないということは頭に入れておいても損はないだろう。
話を戻そう。反射光式露出計では、物体の明度、色、テクスチャーが反射率に影響し示される露光値に影響する。反射率が違うから白と黒に見えるのだし、毛糸と鏡面仕上げのステンレス板では表面のテクスチャーの違いもあって反射率が違う。こうした違いがあっても、その物体が18%グレー相当であると反射光式露出計は想定して値を示す。だから白い板も黒い板も18%グレーに再現する露光値を示し、メーターの出目に従って撮影すると白い板も黒い板も18%グレーの板として写真に記録される。
入射光式露出計は明るさそのものを計測するため物体の反射率に影響されることはないが、基準にしているのは前述の通り18%グレーの物体が存在していると仮定し18%グレーに記録できる値を示す。被写体や背景前景に18%グレーの物体が存在していなかったとしても、18%グレーの物体が18%グレーに再現できる露光量を与えるなら見ために近い写りになるのは既に説明した。
カメラ内蔵の露出計は反射光式なので、近頃は反射率のうち色による差に対して補正を加える評価測光と呼ばれる方式を取っているものがある。
では私たちはほんとうに18%グレーが18%グレーに写る写真で見たままに写ったと感じるのだろうか。結果オーライで言えば問題はない。しかし前述の人の皮膚の色の問題だけでなく、結果オーライとは言えないケースが少なくとも2つある。
1 昼は明るく夜は暗い。時刻だけでなく場によって明るさの違いがあり、違いを私たちはちゃんと感じ取っている。いくら順応性があっても真夜中は暗いし、真夏のビーチや晴天の雪原はまぶしく明るい。
2 私たちは見たいものを見たいように写真に写したい。水面は輝いているように見たいかもしれず、遠い森の暗い木々の葉を一枚一枚分離させて明るく見たいかもしれない。
1については言わずもがなどのような明るさの状況でも18%グレーを18%グレーに記録する適正露出では同じ明るさの写真になる。2では撮影者の位置から反射光を測定する場合、水面は18%グレーになるし、超望遠レンズのように全体の中の部分を測光するスポットメーターを使わない限り森の木々の葉は暗くつぶれがちになりやすい。木々の葉の間に入って入射光式露出計で測光するほかない。
そこで冒頭に書いたように「適正露出に従う必要はない」と無責任に言う人が出てくる。
ところがデジタル撮影の場合、RAW現像するなら2EV=絞り2段、シャッター速度2段くらい躊躇うことなく明るさを増減でき、フィルムで同様に処理した場合に問題になる粒状性や階調性の劣化をほとんど感じさせない。ということは、RAW現像している余裕がない速報性を重視する報道分野やRAW現像そのものができない人以外は、現像時に工夫や調整をすればよいとも言える。
2EVの調整は、これもまた冒頭に書いたように写真で再現できる明るさの幅が狭いため写真の見た目はかなり明るく暗くなる。つまりRAW現像では大胆に調整でき、もちろん微妙な増減も可能だ。
適正露出を避けて撮影する必然性や理由は、
1 カメラで測光したり単体露出計で測光した出目では、ハイライトが飛んだりシャドーが潰れるためいずれかに重きを置いた撮影をするため。
2 RAW現像で大胆にも微妙にも調整できるが、現像時の手数を減らしたかったり余計な作業で写真のできが悪くなりそうなため。
の2点が根拠になる。場の雰囲気を主観的に表したいなら適正露出を避ける理由にはなるが、これは撮って出し同様の決め打ちで露光量を増減した撮影だ。
[1]は、写真で再現できる明るさの幅の中にできるだけ被写体のテクスチャーを収めようとする方法だ。明るすぎても暗すぎても物体のテクスチャーは十分に記録できず、テクスチャーが十分に記録できるのは適正露光からマイナス3EV、プラス2EVの幅と考えてよい。
たとえば人物を撮影するなら適正露出としたいのは人物の顔だろう。こうして露光量を決めるとき、マイナス3EVまでの箇所、プラス2EVの箇所までテクスチャーはなんとか残る。もしもっと暗い、明るい場所までテクスチャーを残したいなら、これらをマイナス3EVからプラス2EVまでに収まる露出量にして現像時に調整する。あるいは現像時に調整せず人物の顔をやや犠牲にしたままにする。
ネガフィルムはポジフィルムよりラチチュード(白とび黒つぶれしない幅)が広かったことを挙げてデジタル写真はラチチュードがポジフィルムなみに狭いといまだに勘違いしたままの人がいる。それは撮って出しのJPEG、TIFFならびにRAW現像時にデータを開いてディスプレイに表示した見た目であって、12bit〜14bit RAWなら現像時の粒状補正も加わり明らかにネガフィルムよりデータの実効ラチチュードは広い。
紙焼きして鑑賞するネガフィルムはフィルムにテクスチャーが記録できていても、印画紙側の能力が対応できず結果的に再現できる幅が狭いのだ。
したがってデジタル撮影では、撮影時に十分テクスチャーが記録できたほうがよくデータの見た目上の明るさは関係ないとする立場が成り立つのだ。
撮影時に十分テクスチャーを残すため露出はアンダー気味のほうがよいのは、テクスチャーが十分に記録できるのがマイナス3EV、プラス2EVの幅だからだ。こうなるとカメラの分割評価測光の出目で撮影したり、反射光式単体露出計の出目で撮影するほうがよい場合だってある。
つまり、昼は明るく夜は暗く写したい(または主観表現として明暗を写しとめたい)、見たいものを見たいように写真に写したいという欲求を反映させるのはRAW現像時の操作で行うという姿勢だ。いずれも程度問題であり、状況や目的が違えば露出計の出目のままでは不適切になる。
撮影時に自分が求める明るさの通りの露光量を厳密に与える場合はデータの汎用性が低くなる。なぜなら明暗いずれかの箇所のテクスチャーを記録しきれないからだ。
フィルムネガやRAWデータの旨味は、あとからいくらでもアウトプットを変えられるところにある。数日後どころか数十年後に違う表現を試みたくなったとき、可能な限り余さずテクスチャーを記録できていれば最大限に生かすのも、逆に捨て去るのも可能で多様な表現ができる。私は数十年前のネガをスキャンしたうえでデータ化し表現を変えている。
決め打ちで露光量を決めると言えば精神論としてかっこよいかもしれないが、そんなものは自己満足でしかない。
アンセル・アダムスが露光量の決め方であるゾーンシステムを開発したのは、フィルムの限られたラチチュードに可能な限りディティールを記録するためであり、この方法はデジタルの時代にも有効だ。アンセル・アダムスは撮影時にもっとも重視したいディティールを決め、ラチチュードの上限と下限に収まる露光量を決めていて、これこそ現代の分割評価測光が自動化している手法だ。
では何が正しいのか。
正しさは各自の欲求と覚悟しだいで答えはない。
私はこれまでF8・1/125やF8・1/250に設定を固定して撮影する方法を推奨してきた。これで日中なら大概のものは撮影でき、明るく飛んだり暗く潰れる箇所が出ることで写真を考え直すきっかけになり、また明るいことを明るいままに、暗いことを暗いままに撮影できるメリットがある。
いっぽうでスポットメーターを使って望みの箇所を望みの濃度で記録する方法で撮影をしている。これはアンセル・アダムスのゾーンシステムの簡略版であり、RAW現像時の手数を減らして的確に主観を反映させるためだ。つまり必要なディティールは余さず記録する方法で、メーターの出目そのままの適正露出と呼ばれているものとは立場が違う。
「適正露出に従う必要はない」と言われても、ではどうしたらよいかわからない人がほとんどではないだろうか。やることはメーターの出目から増減させるだけだが、どれだけ増減したら望み通りになるか想定できない人もまたほとんどだ。
そういう人は適正露出とは便宜的なものとまず考えればよい。そのうえでRAW現像時になにをどうするのが自分の表現なのか考えて、ラチチュード内に必要なかぎりのテクスチャーを記録するのか、その場の欲求に従い決め打ちで露光するのか立場を決めるのがよいだろう。
© Fumihiro Kato.
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古い写真。