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春になると撮影する連作を例として挙げる。
この連作では背景の明るさを均一にしている。Photoshopの自動選択ツールで一発で抜けるくらい均一にしないと気が済まないし、写真の意味が変わってしまう。
なぜ多少のグラデーションを許せないのかと言えば、背景に「意味」が生じ、また意図する平面的な構成が破綻するからだ。
音楽で言えばミニマル・ミュージック (Minimal Music) 。最低限の要素を反復する音楽のごとき世界を目指している。ドラマチックな感情を排したいので背景をとことん単純化させる必要がある。
このため上掲の写真では背景を均一に255値で242〜3くらいの明るさ(濃度)にライティングしている。
これは「こだわり」ではなく「定義」だ。
チューリプが主題なので被写体のサイズはさほど大きくない。したがって映り込む背景はせいぜい50cm程度だろうか。カットごと舞台をばらすのは面倒だしばらつきの原因になるので、150cm×75cm程度の範囲を均一の明るさにしてアングルが変わってもよいようにしている。
もし手を抜いて背景に目で見てわかるグラデがつくと、即物的な表現がだいなしなり、意図せぬグラデが表現の一部になってしまう。
また背景を均一にすることで、空間を感じられなくなる。二次元的な表現にするためにも細部を手抜きできないのだ。
242〜3の値にしているのは、被写体の一部が限りなく255の値に近い明るさに設計しているのでハイライトを対比させなければならないからだ。
写真は見たままに評価される。即物的で空間を感じさせない写真ならその通りの写りにしなければならないのだ。
これは一例だが、撮影時・現像時にテーマごと神経を使うべき部分がかならず存在している。
今年の砂景シリーズでも同様に「定義」を一貫させている。
自然界を撮影するためロケーションや天候をコントロールするのは不可能だが選択はできる。幾何学的な構成にするには電柱の影が整地された地面と砂地との境に対して平行でなければならなかった。
もちろん複雑な要素が混在する写真も撮影しているが、このシリーズとこの1カットは特定の定義を貫徹させている。現像時も同様で一貫した定義に基づいている。
人それぞれテーマごとに心血を注ぐべき細部は違う。
では、どこを妥協なく詰めなければならないか答えがわかっているだろうか。
撮影しようとする衝動は感情だ。写真を完成品にするのは理性だ。感情を翻訳して理性に橋渡しなければならない。意図が反映された写真にするには、理性による「定義」の実現という詰めが重要なのだ。
© Fumihiro Kato.
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古い写真。