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タイトルのまんまであるが、どうだろうか。
写真撮影から仕上げまでに出来ること出来ないことがわかると確実に写真が変わる。
独自性のある写真を撮れるようになる。
1
何を撮るか、どう撮るか、現像時にどう仕上げるか。この3点をすべて隅々まで自分で「決めて」「操作」していると答える人が多いと思う。でもはたしてそうだろうか、という疑問を私はずっと抱き続けている。
写真を撮影するにあたってできることはほとんどない、というのが私の立場だ。
何を撮るか。
被写体を選択しているのは間違いなく自分の意思だ。しかし被写体はこの世界に既にあるもので、撮影者が思い描いたり願望したものはいくらがんばったところで撮影できるはずがない。脳内の願望を撮影したいなら、工作したり絵にして形ある実態に変えなくてならい。
実際の撮影を冷静に振り返るなら、被写体を決めるというより被写体に誘導されているというほうが正しい気がする。
どう撮るか。
構図を決めて、露光値を決めているはずだ。構図を決めるうえでレンズの焦点距離も決めている。露光値を決める操作いわゆる「露出」の決定は、何より真っ先にオート化され自動になった分野で多少増減できるとしても光量次第のところがある。
どう仕上げるか。
現像は前述の過程より大幅に自由度が高いのではないだろうか。
2
世界観は画角によって明らかになる、と先日の記事に書いた。
画角の決定は「どう撮るか」の決定で、撮影者がどのように世界を見ているかを表している。画角は撮影者の世界観の現れだ。
[1]でわかるように、画角を決めるのは風景でも被写体になる人や物でもなく撮影者本人の意思で、誰かから強制される性質のものではない。
写真を撮る人が交換レンズに興味津々となり、なぜ他の機材・用品より購買意欲が湧き上がるのかと言えば撮影者本人の意思次第で多様な効果が得られるからだろう。つまり購入から撮影時まで関与できる幅が広くて面白いからだ。
「被写体次第でレンズの焦点距離が決まるから、画角を決めるのは被写体だろ」と言いたいかもしれないが、引きの有り無し(ワーキングディスタンスの長短)問わず複数の焦点距離が使えるのだから決めているのは撮影者だ。
大建築物の全体像を撮影したい人もいれば部分的に撮影する人もいる。鳥のアップカットを撮影したい人もいれば風景のなかの鳥を撮影する人もいる。目的の違いだが、世界を見る視点の違いで目的そのものが世界観に支配されている。
「ポートレイトは85mm」のようなセオリーは経験上固定されているにすぎず、誰かの視点を借用しているだけで、セオリーを無視して効果がまったく違う焦点距離を採用してよいのだ。
重要なので繰り返すが、画角は撮影者の視点そのものを表している。
もし「ポートレイトは85mm」と信じて疑わないとしたら、それはセオリーとなった誰かの視点で被写体を捉えてることになる。85mmで撮影するのが悪いのではなく、85mmの視点が表す世界観がほんとうに自分のものか問い直さないとならないのだ。
3
光の扱いも決定の自由度が広い。
太陽光の利用も人工光源の利用もともに「ライティング」としたとき、どの方向からの光を使って撮影するか決めるのは撮影者だ。さらに季節や天候を選択するのも撮影者であって、気に入らないなら望みの季節や天候を待つことができる。
太陽光より人工光源は自分の意思通り操れるので、決定の自由度が格段に広くなる。
画角が世界観の反映であったように、人工光源を操つることは世界観をつくっていることになる。これには異論はないだろう。
4
レンズの焦点距離を選ぶのに、世の中の常識とされている考え方が大きく影響している。ライティングはパターン化されていて、誰かが教えてくれた方法をそのまま採用して疑いを持たない人が多い。
どちらも、誰かの世界観で写真を撮影しているのだ。
根拠なくむちゃくちゃをやることが自分の世界観の反映ではないので、過去の人が積み上げてきた方法論を採用することまで否定しなくてよい。大切なのは疑いを持つことであり、なにをどのように撮影したいか核心部分から問い直す習慣だ。
選択の根拠を明確にして、選択の隅々にまで責任を持つ必要がある。
焦点距離=画角をひとつに限ってレンズ一本で撮影すれば、本人が世界観を確立できていなくても世界観が一貫した写真になると以前の記事に書いた。
初心者にとっては、自分の意思と関係なく画角が強制されレンズによる世界観が写真にありありと現れるため世界観の統一が図られる。なおとうぜんながら単焦点レンズ1本に絞って撮影するのだ。
初心者は自分の世界観に無頓着であるし、無頓着ではない人にとってはどう表現すべきか方法論が確立されていないので、こうして視点の在り方を強制される経験を積むと世界観とは何か、どう撮ればよいのか自ずと自覚へ誘導される。
経験を積んでいても独自の世界観を表現できずセオリーに縛られている人も同様だ。
単焦点レンズを1本だけ選ぶとき、根拠があって特定の焦点距離を選択できる人は世界観を自覚しているか自覚しつつあるので、徹底するなら視点の固定化が実現され写真の世界観が純化する。
選択する1本のレンズは超広角、広角、標準、中望遠、望遠、超望遠となんでもよい。
選択した画角が終生こだわり続けるものになるならよいが、違うと感じたら他を試して世界観を問い続けよう。
ライティングも同様の考え方で世界観を問い続ける。
5
写真にできること、撮影者が関与できることを精査してきた。
撮影者の意思が反映できる画角の選択、ライティング、説明はしなかったが現像によって世界観が表現できる。
ライティングと現像は画角の決定より専門的なので、まずは画角の決定から意識的になるのが近道であるし効果がてきめんに現れる。
昔々は交換レンズを買うための敷居が高かったこともあり50mm標準だけでしばらく撮影を続けるのがあたりまえだった。昨今はサードパーティー含め交換レンズの選択肢が増え、交換レンズについての情報が溢れかえっているので初心者が多様な焦点距離を手にしている。
多くの無責任な情報源は「交換レンズは撮影の幅を広げる」と言い、これもよいあれもよいと消費を煽る。
たしかに幅は広がるかもしれないが、それは鳥を大きく写す、巨大な建物を画角に収めるという何でも屋的安パイの考え方だ。初心者はなんでも撮れることが嬉しいのだろうし、それだけで満足しがちだが、視点が散漫になり世界観のない写真になる。
このサイトに初心者が目を止めるとは思えないが、物欲を充足させるためにカメラを買う人以外は画角を絞ることを重視すべきだ。
以前の記事でズームはスキルを必要とされるレンズと書いた。
なぜなら、異なる効果が焦点距離を変更するだけで簡単に実現できるレンズなので、それぞれの特性=視点の在り方を自分の世界観に寄せるスキルがないと使いきれないからだ。
ズームを使い切っていると思い込んでいる人は、世界観を貫徹できているか再点検すべきだ。
6
優秀な作品を制作している写真家が、作品づくりで使用しているレンズは1本かせいぜい2、3本に限られる。才能とスキルがある人でさえ、世界観を表現するうえでやたらな焦点距離を混ぜられないのだ。
たとえば古典とも言えるアンリ・カルティエ=ブレッソンの作品はほとんど50mmで撮影され、50mm以外の焦点距離で撮影した作品もあるが個性と世界観の反映のされかたが薄いと感じられる。名手でさえ代表的な焦点距離とされる画角があるのだ。
写真の上手い下手は、確たる基準があって決まる訳ではない。セオリーを知らないまま撮影されたアマチュアの連作でも、ダムに沈む村を撮影し続けた住民のご老人の作が不朽の名作になったように極上の写真になる。
この例は切実な気持ちがそのまま世界観になっている。手軽なレンズ交換できない機種で撮影して、高価な機材を使用した人より写真が優れているのだ。
写真にできるのは現実を記録することだけだ。撮影者にできるのは世界観を反映した視点で対象を撮影することだけだ。写真の上手い下手は技術より、いかに独自の世界観を貫徹できるかに依存する。
独自の写真が撮れなかったり、世界観が自覚できないなら、まずは単焦点レンズ1本からはじめよう。
© Fumihiro Kato.
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古い写真。