超広角は余白を恐れるな地面を恐れろ考えろ

超広角についてかなりの数の記事を書いてきた。理由は、超広角が好きという以外に何もない。四六時中、15mmの視覚で撮影しているのでレンズの稼働率はとても高い。迷ったら15mmをカメラに装着して撮影して、いまどきは画素数が多いからトリミング前提で広角レンズの代わりにもしている。超望遠から超広角までの焦点距離レンジのなかで、超望遠はブレであるとか大気のゆらぎなどの課題がついて回るけど、超広角のほうがなにかともっとやっかいな問題と付き合わなければならないところがある。私の超望遠経験はゴミクズ程度だから偉そうな態度は取れないのだが、長い玉は離れたところにあるものを大きく見たい欲求の延長に撮影があり、かなり人間の欲望や意志に近くて、人間の生理感覚にも馴染みがよいように思う。あそこにあるアレをもっとこっちに! なのである。だが超広角のだだっ広い画角は、慣れていないと何が入り込むかわかりにくい。しかも慣れていないと、どんな状態に描写されるか想像しくい。

画角何度から超広角か定義はまちまちだが、ライカ判なら20mmあたりから超広角と呼んでいるのではないだろうか。ライカ判20mmは水平画角83.9°/垂直画61.9°/対角画角94.4°なんだそうだ。画角だけ示されても実感がわかないと思うから人間の視界で説明すると、具体的な雰囲気を把握できる範囲がライカ判20mm相当だ。人間の視覚は、直近に見た記憶が実際に見ている範囲に連結されて、見えていないけれど「わかってるよ」と了解するようになっている。だから、「わかってるよ」の範囲で何か動きがあると反応できるのだ。これがライカ判20mm相当なので、そんなに難しいレンズではない。(超広角レンズの画角、他の焦点距離の画角、これらの相関関係は[こちら]にまとめてある)

でもやっぱり超広角と縁のない人にとっては、ぐわーっと広がる画角に圧倒されるかもしれない。ライカ判20mm相当に限らず、超広角の特性として横位置の構図でも天地の広さが人間の視界をはるかに超えているところが新鮮に感じられるはずだ。つい最近アスペクト比の記事を書いたけど、人間の視界はパノラマ的というか16:9的というか上下が狭い横長型なのだ。カメラのアスペクト比は固定されているから、超広角だけ天地が広いわけではない。

ここからは面倒だから、焦点距離はライカ判のものとしていちいち但し書きは入れない。

望遠側は焦点距離が2mm程度違っても画角ががらっと広くなったり狭くなったりしないが、超広角は焦点距離が短くなるほど1mmの差でけっこう世界が変わる。なので20mmと18mmは明らかに世界が違う。15mmはもっと違う。どの焦点距離が自分向きか誰に相談してもわかりっこない。望遠では用途を聴けば「300mmでは短いから500mmないとね」とか言えそうだけど、超広角の場合は特殊な用途、 限定的な用途以外は焦点距離は好きずきでしかない。たった数mmで世界が変わるというのに、こんな感じ。望遠レンズでは135mm、200mm、300mm、400mm等と隣り合った焦点距離のレンズを持っていたり、若干離れていても望遠カテゴリー、超望遠カテゴリー内で複数の焦点距離を持っている人は珍しくもない。だけど、超広角の隣り合った焦点距離のレンズを持っていてもどちらか一方をもっぱら使って、もう一本の出番はほとんどないという感じになると思う。

で、超広角なのに横位置20mmは引きのない場所で建築物を撮影しようとするとけっこう難儀する。引きが何メートルかによってだいぶ違うけど、歩道から建物を撮る場合は20mmでは建築物の1階を撮影するのも苦しいかもしれない。なお、この喩えはアバウトなものなのを承知しておいてもらいたい。引きがない場所で建築物に正対して撮影するなら横位置で15mmを使っても天地について満足の行く結果は得られないし、斜め横から撮影すれば引きが確保できるとしても、奥行き方向のパースの誇張が気になるだろう。「20mmの垂直画角は61°もあるのに無理ですか」という疑問があるかもしれない。こういったロケーションでは垂直画角の下1/3くらいというかなりの割合を地面に取られるので61°を有効に使えないのである。もちろんカメラを上向きに構えて地面を切るのは可能。でも地面を切るほど角度をつけたら超広角ではパースの付き方が半端ない。RAW現像時にパース補正をすると、元画像から相当分がトリミングされるのでこれまた20mmの画角をフルに使えないのである。まあだからシフトレンズが世の中にあるのだけど、画角が広いシフトレンズでも引きは必要だし、高さがあるものは縦位置で撮影することになる。


模式図では20mmくらいから15mmくらいの超広角の垂直画角をアバウトに表現している。

超広角にとって地面の問題は大きいのだ。これは縦横いずれの構えも同じで、縦にすれば高さがあるものを写すのに有利に思えるかもしれないが、視点位置をかなり上げないかぎり縦構図にした分だけ地面の比率はかえって増える。超広角は画角が広いので、多少カメラ位置を上げただけではたいして撮影範囲が変わらないのだ。抜けのある風景撮影の場合は、画面真ん中が地平線、水平線になるのだから、天地の1/2を占める地面等を鑑賞の対象に引き上げた表現にしないとならない。風景は建築ほどパースの影響が問題視されないと思うかもしれないが、いやいやどうしてカメラを上下に降ると頭でっかち尻すぼみや反対の遠近感の誇張が気持ち悪い。水平線や地平線が凸凹型の曲線になるし。

被写体に限りなく寄れば地面の存在が気になりにくくなる。だが、ここに2つ問題がある。

1 構図が著しく制限を受ける。
2 主たる被写体のパースの誇張による変形が気になりやすい。

これらは「広角は常に被写体に寄れ、超広角はもっと寄れとするセオリー」の問題点だ。

問題(1)については特に疑問はないだろう。主たる被写体の存在を主張するための「広角は常に被写体に寄れ」であるが、超広角が「被写体どーん」の構図にしか使いどころがないレンズに成り果てる。また、手前に大きく主たる被写体を置くと、もともとパースペクティブの誇張が激しい超広角では背景の物体と大きさの差が誇張されて騒がしい印象がことさら強調され、この点でもワンパターンのレンズと烙印を自ら押さざるを得なくなる。つまりワーキングディスタンスが制限されて構図がワンパターン化し、構図のワンパターン化で表現もワンパターン化する。こうして超広角に飽きがくるのだ。

問題(2)は、標準レンズでは気にならなかった被写体の奥行き方向の厚み(パース感)が誇張され、かなり煩わしい描写になる。この問題を避けようとすると、(1)同様に構図の固定化にもつながる。クルマを超広角で撮影するケースを例にしよう。クルマのフロント側から超広角で撮影する場合は、奥行き方向にパースが誇張されて著しく長いクルマのように描写されても比較的納得が行く。だから迫力表現として安直なくらい頻繁にこういった写真が撮影されている。ところがサイド側から撮影しボンネット等が入り込んで奥行き側が強調される描写になると「なんか違う感」が濃厚になる。さらに、真正面、真横、真後ろからではなく斜め位置から撮影すると、厚み方向のパースの誇張はクルマのフォルムを著しく変形させ平行四辺形や菱形のクルマとして描写される。このような場合は、俯角仰角をなくし水平垂直を正しく取ってもこれらが正しくない違和感が強くなり、クルマのパーツ等の配置を見かけ上整えると背景の俯角仰角・水平垂直などあらゆる角度が大いに狂う。こうなると、クルマを真正面、真横、真後ろから撮影するほかなくなり、真横からは比較的低い視点以外は選択できなくなって構図の固定化にもつながる。

人物を撮影する場合についても考えてみる。日頃、私たちは人間の厚み(奥行き方向)について考えることがない。写真とくにポートレイトを撮影する者にとっては人体の厚さの描写をどうするか考える機会がけっこうあるけれど、大概は標準から中望遠等のパース描写がおとなしいか圧縮気味の焦点距離のレンズを使って「そんな問題はない」ことにしている。ポートレイトで中望遠を使うのはワーキングディスタンスと画角、あるいはボケがちょうどよいからという理由しかないと思っているなら、小一時間沈思黙考熟慮反省したほうがよい。300mm望遠を使って背景をボケボケにしたポートレイトが流行した時代があったが、あれは人体がほとんど平面に描写されかなり変なものだった。これと正反対の問題が超広角の寄りの人物に生じるし、先ほどのクルマの例で示した変形の問題にもつながる。

列挙してみよう。体の厚みが誇張され気になる。まず顔がゆがむ。頭の形状がゆがむ。さらに、顔の隆起のうちもっと手前にくる鼻が巨大化する。真正面向きでないなら、手前にくる目と奥の目に著しいサイズ差が出る。このほか腕を広げる・前に出す・後ろにそらす、脚を広げる・前に出す等の動作にパースの誇張による躍動感が出るが著しいワンパターン感がある。人体の標準的な形状について、人はかなり厳密なパターン化を行い熟知しているので、わずかな誇張でも気になってしかたなくなるのだ。

「広角は常に被写体に寄れ、超広角はもっと寄れ」には、こうした問題があるのだ。撮影意図と表現意図にもよるが、その撮影に広角・超広角レンズが本当に必要なのか一考して、画角が狭いレンズで主たる被写体を大きく撮影したほうがよっぽどよい結果を得られケースが多いのだ。

「広角は常に被写体に寄れ、超広角はもっと寄れ」なんて話はケースバイケースくらいに思ったほうがよいと、私は考えている。むしろ「超広角では主たる被写体を適切に離せ」がセオリーではないだろうか。超広角を使うのは広い画角を得るためで、広い範囲を撮影したいからだ。広い範囲を一定の枠内=フレームの中に収めれば、あたりまえだが個々の要素は小さくなる。これが超広角の基本的な構図なのだ。一段落前に書いたが、主たる被写体を大きく撮影したいなら相応に画角が狭いほうが自然なのであって、現に被写体を大きく写したいとき私たちは疑問を抱かず望遠系のレンズを選択しているではないか。

ここで大切なのは「超広角は余白を恐れるな」である。

超広角には前述の「寄ることで、どぎつい構図にワンパターン化する」「寄ると物体の変形が著しく気になる」の2点の問題がつきまとう。また「広い画角を得て、広い範囲を撮影したい」ために超広角が存在しているという道理がある。問題2点を解消したいなら、寄らなければいい。広い範囲を撮影するのだから余白が生じるのがあたりまえだ。だから「超広角は余白を恐れるな」は屁理屈でもなんでもなく、超広角レンズの特性と素直に付き合う真っ当な知恵なのだ。

手前に大きく主題を持ってこないと超広角は使えないという発想を捨てると、かなり気分が楽になる。なのだが、撮影経験が多い人ほど主題とその他は大きさの違いで表現しなければならないとか、画面内でなにかが主張していないと写真として成立しないなどの強迫観念に縛り付けられている。この強迫観念の根っこに「写真は何かを説明するためのもの」と思い込みがあり、こうなると余白は無駄以外のなにものでもない。ここは発想を変えて、「超広角は余白で雰囲気を表すレンズ」「超広角は広大な画角で雰囲気主体の表現をするレンズ」とすべきだろう。超広角は雰囲気を撮影するもので、雰囲気を余白や広がりで表現しないなら使う必要はないくらいの意識でよいと思う。雰囲気を雄弁に語る必要がないなら、もっと狭い画角で十分目的が達成できるのである。

冒頭で、20mmは見えてないがわかっている範囲を撮影できる画角と説明した。15mmともなると感じられない範囲まで画角に入る。どちらも「こういう世界の中に私と被写体がある」と表現できるのだ。どちらかという20mmは自覚できている環境の雰囲気を表現でき、15mmは自覚できていない未知のなにかを含んだ雰囲気を表現することができる。もちろんこうした表現は、過剰に手前にある物体に近づかず、適度に引いたワーキングディスタンスでないと無理だ。20mmの「自覚できている環境の雰囲気」を表す特性は、説明的な特性と言い換えることができる。15mmの「自覚できていない未知のなにかを含んだ雰囲気」を表す特性は、説明しきれない環境感を表現しやすく、パースの誇張を殺し静かな構図にするとアンビエントな特性になると言い換えられる。余白が雄弁に語りだすのだ。そしてこのとき、地面側をどうすべきか自ずと構図が決まってくることになる。

実例は[こちら]にたくさんあるので興味があれば観てもらいたい。

 

Fumihiro Kato.  © 2018 –

Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. All Rights Reserved.

 

Profile

F.Hiro.K
加藤(文)文宏 / Fumihiro Bun Kato a.k.a Hiro.K
写真家・作家 / Photographer Author
・北海道北見市生まれ。
・大学卒業時までに詩集「無題あるいはサラバ」、同「Cadenza」発表(共に絶版、在庫なし。「Cafebza」別装丁私家版のみあり)。
・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。
・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他)
・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。
・不二家CI、サントリークォータリー企画・取材、Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告、武田薬品工業広告、他。アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材、MIT Museum 収蔵品撮影 他。
月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。
・長編小説「厨師流浪」で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」他、小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。
・獅子文六研究。
・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。
・各メディアにおけるスチル撮影。
・オリジナルプリントの製作、販売。
・JSAHP正会員
Translate »