かたちを見てもダメで光=陰影を見るのだ

●前段:光で像を描くことについて
葛飾北斎の娘、葛飾応為は現存する作品が少ないのだが父親譲りの画力と試みの斬新さが素晴らしい画家だ。応為の代表作に「吉原格子先之図」がある。

花魁たちが室内に居並ぶ「張見世」の様子を描いたこの作品は、日本の絵画の基本骨格であった輪郭線がなく、西洋画のように陰影のみで物体を描いてる。輪郭ではなく光の陰影で描く画法は、現代の日本人には珍しくもないが当時は画期的な試みであった。応為は間違いなくオランダから持ち込まれた西洋絵画を観て、陰影で物体をかたちづくる画法を学んだのだろうが、実際の陰影を研究しなくては「吉原格子先之図」を描けなかっただろう。

人は人、西洋は西洋でよいのだが、こと写真に限っては光で像を描く作業なのだから西洋絵画由来の陰影で物体を描く方法を基礎に置かなければならないだろう。むしろ輪郭で物体を描くほうが、写真ではよっぽど難しいのだし。ところが、日本では応為の時代になって西洋から陰影で絵を立体的に描く方法が伝わったわけで、民族の歴史に影や陰を注意深く観察する過程がほとんどなかったため、絵や写真のような二次元の表現で陰影を扱う大切さが浸透しているとは言い難い。日本画はスタイルとして輪郭を重んじているし、岩絵具は色面をつくるのに適していても陰影を描くのには向いていないし、そういう分野はここでは問題にしない。写真を撮る身として、写真については陰影でモノを見る意味や方法論を考えたいのだ。ほら、国産テレビドラマと欧米製ドラマを見るとライティングの質とグレードの違いが一目瞭然だ。国産ドラマのすべてを明るくしました、状況を説明するのは光ではなくセリフです、タレントの顔に影が落ちないようにします、というセンスの欠けらもないライティングは見ていてげっそりするでしょ。これと似たようなことが、日本の写真にもあるように思うのだ。

ライティングについて記事を書くとけっこう人気があって、特にライティング機材の話は古いものにも息の長いアクセスがある。だから陰影への興味がまったくない状況でなく、どうやったら陰影を見る習慣がつくのかわからない状況や、意識を変えるにはどうしたらよいかわからない状況が続いているのではないかと感じる。お仕事を命じる人や、家庭で写真を観る家族、あるいは友人たちから、国産テレビドラマのような「明るさが万遍ない写真しか認められていないよ」という人がいる。こうした需要に応えるのもたいせつだが、自分の仕事に自信を持つとか、自分らしい作品を撮る自負が欲しいなら写真の本質をちゃんと理解して作品に反映させたいものである。

既に触れたように、ライティングは陰影を描く手段である。しかし、常日頃から身の回りのあらゆる陰影を観察していなと、どうやったら正解のライティングになるか、陰影をどんな光源の操作で描いたらよいかわからないだろう。風景だって、山の輪郭、木の輪郭と見ていてはどうしようもない。アウトプットする写真で立体感を殺した作風にするにしても、太陽光と天候と時間によって光がどうなるか、その光で風景がどうなるか観察しないとならないだろう。またRAW現像の方法だって、輪郭で像を描く感覚は通用しないのであって、これまで何度もこのサイトに書いてきた「トーンを出す」手法は陰影に基づいた立体感をどうするかについて論じたものだ。

それぞれちゃんとした教本があるし、拙い私が考えたことや経験したことを書いてきたのは前記した通りだ。でも陰影だけで物体を描く意識がはっきり確立されていないと、何を読んでも形式的な方法論だけ頭に入っておしまいだ。私は独学の後に助手仕事をさせていただいて、この間に写真は陰影で描くものと学んだけれど、知識として知っただけでほんとうのところは皆目わかっていなかった。光の陰影で描かなければならないと気づいたのは、数十年前にメキシコに旅をして散々写真を撮ったときだった。メキシコは高地が多く大気が希薄なうえに、空気がきわめて乾燥していて、水墨画にみられるような空気遠近はカケラも存在しない場所だった。ここで明瞭な明暗・陰影で描かれる風景や街並みを撮影して、光についての考え方を改めたのだ。

●光で像を描くための発想法
黒い紙に白い色鉛筆で絵を描く様子を想像する。写真の撮影は黒い紙に白い鉛筆で描く行為そのものなのだ。これは二つの理由がある。1.カメラは暗箱だ。暗箱の中にセンサーがある。真っ暗な箱の中にあるセンサーに光が到達して像を得る。これは黒い紙に白い色鉛筆で絵を描く様子にそっくりだ。 2.太陽が存在するから地球上に光がある。真っ暗な空間に太陽が出てきて像が見えてくる状態は、黒い紙に白い色鉛筆で絵を描く様子にそっくりだ。

太陽と地球を操作するなんて無理だけど、スタジオを操作するのは不可能でもなんでもない。スタジオは真っ暗だ。スタジオは私がなんらかの操作しなければ何もはじまらない。ストロボか定常光を用意して物体を照らす。これは黒い紙に白い色鉛筆で絵を描く様子にそっくりだ。ということになる。

スタジオ撮影は当然前述のままだが、風景など屋外の撮影も同様の発想で行う。つまり風景などを撮影する環境は「地球」というスタジオで、デフォルトの状態は真っ暗な闇であるとする。この闇の中に像を浮かび上がらせて記録するのが撮影だ。スタジオで助手がライトを動かしつつ「こんな感じでどうですか」と私に声をかけてくるので、光がちょうどよい状態で「ストップ」と助手の動きを止める。太陽の運行は、助手の動きそのものだ。実際の撮影では太陽を操作できないが、季節、天候、時間を選択できるし露光値も決められる。

実際の撮影では、スタジオはある程度ものごとが見えるくらいの照明があるし、屋外を撮影する場合も真夜中から夜明け、さらに最適な時刻へと待機をする訳ではない。これらはいわゆるイメージトレーニングである。

説明の都合上「白い色鉛筆」を喩えにしてきたが、申し訳ないがここからは鉛筆を「白い絵の具を含ませた太筆」に持ち替えてもらいたい。何を言いたいのかといえば、鉛筆ではまだ「輪郭」を意識しがちなるので、物体を「面」で解釈しないと描けない「太筆」にするのだ。

冒頭に書いたが、写真表現で輪郭を描くことそのものが不可能で、もし輪郭線の表現をしたいならPhotoshopなどのエフェクトを使わなければならない。だから、写真撮影では輪郭線の発想そのものがナンセンスなのだ。写真で物体の面にある明暗を記録するのは、黒い紙に白い絵の具を含ませた太筆をつかってスケッチするのに等しいと考えよう。

撮影しようと被写体に向かうとき、被写体を輪郭で区切られた外形線で見てはならない。明るさの塊ごともっと大きく、その塊の面ごと捉えなくてはならない。「被写体の輪郭で区切られた外形線」とは、ポートレイトでいえば「顔の輪郭」「目の輪郭」「鼻の輪郭」「口の輪郭」だ。漫画を描くとき、ペンで描く線に相当する。漫画の表現を思い出してもらいたいのだが、スクリーントーンを使って明暗を表現するとしても、主人公の顔はペンの線画で表している。「顔の輪郭」「目の輪郭」「鼻の輪郭」「口の輪郭」を線で区切って描いている。

写真では、「顔の面」のなかに「目の面」「鼻の面」「口の面」があり、それぞれの面に凹凸があるという捉え方をしなければならない。ポートレイト以外でも同様に発想する。山の外側の輪郭、家の外側の輪郭や窓や軒の輪郭といった把握のしかたではなく、山の面のなかにある木々の面、崖の面など、家という塊の中にある手前の面、奥行きの面、窓の面、軒の面として理解するのだ。

光の面を見て「黒い紙に白い絵の具を含ませた太筆をつかってスケッチ」するのだから、いきなり「顔の面」を真っ白く塗りつぶしたりしないだろう。これでは小学生の図画工作だ。同じ白さ=明るさの範囲を塊で捉えて描くことになる。いちばん明るい塊は白い絵の具をそのまま塗るだろうし、階調ごと筆に含ませる水分量を加減して濃淡をつけるはずだ。こうした濃淡をつけるとき最初に全体像を想定しないと、描き進めるうちに思惑が破綻して、暗い明るさを塗る段階に至って途中の明るさの表現に不満が生じる。濃淡=階調を何段階で描くか、それぞれの明るさを計画しておかないとならないのだ。

写真では、ライティングで面をつくる際に階調を何段階で描くか想定するし、露光値を与える際にもとうぜん考えなくてはならない。また、こうした撮影時点の想定はRAW現像の方法がまずあって決まるものだ。だからRAW現像時も面をどのように表現するか、階調をどう見せるか考えることになる。

さて、ここで葛飾応為先生に登壇してもらおう。

応為先生が「吉原格子先之図」を描こうとしたとき、明るい状態から暗さで塗りつぶして行く意識で吉原の風景を見ていたとは思えない。暗い場所に光があたって像が浮かび上がるさまを観察しているのだ。応為先生はかなり細かく階調を観察して、明るさの塊とその位置を把握したうえで作業に取り掛かっている。

応為先生が描いた「吉原格子先之図」そのままが巨大スタジオにセットで組まれて、モデルさんたちを撮影しようとしているのが私だとする。いやでも目につくのが格子や建物の柱、外形なのだが、これらは構図を取るときのガイドでしかないと割り切る。

明るさを塊ごと把握し、その塊の中にある面を階調で描写するのだから、目論見にあうようストロボを配置して光量を決めなくてはならない。ただしストロボの調光つまみだけ見ていても目論見は実現しない。「その光はどのような階調を描くか」「階調を記録するために露光値はどのようにするか」「RAW現像で階調をどのように組み立てるか」が明確化されていないと話にならない。これは「黒い紙に白い絵の具を含ませた太筆をつかってスケッチする」とき、濃淡=階調を何段階で描くかや、それぞれの明るさをどうするか計画しておかないとならないのと同じだ。

ストロボの調光に比例するモデリングランプが灯っているとする。私が指示を出し、助手さんが調光つまみを操作するたび、闇の中に光の面が浮かびあがってくる。この過程を想像してもらいたい。これが白い絵の具と太筆に喩えた、光の面で絵を描くことそのものだ。

多くの人が勘違いしているのが、ここだ。ライティングは被写体を適正露光するために必要な量の光を当てるもので、光に角度をつければ自ずと明暗が記録できるという発想は正しくない。「吉原格子先之図に露光量の適正化という概念があるだろうか。明るさの最大値をどのような明度で表すかについて顕密に決められているが、適正露光のような考えかたはない。それより、明暗の階調、階調の適切化のほうが大事なのである。結果的に同じ写真になるかもしれないが、明るさを塊ごと把握し、その塊の中にある面を描くため照明を用意すると考えたほうがよい。ストロボは白い絵の具を含ませた太筆で、被写体の観察で得た「顔の面」のなかの「目の面」「鼻の面」「口の面」を濃淡で描き分けるためのものだ。

これは太陽光で風景を撮影する場合もなんら変わらない。風景に向かったら太陽の状態を読む。一旦暗黒の世界を想定して、太陽光が様々のものに光の面をつくって行くのを読み取る。要は、光の面の観察だ。

では、もう一度「吉原格子先之図」を使って説明する。

これが目の前にあるものだ。

以下のように輪郭を意識して物体を形状や細部の形状から把握するのは好ましくない。(これらは意識しなくても脳がちゃんと認識している)

明暗と大まかな面で把握する。

大まかに把握したものを明るさの階調に翻訳する。

ボカシにするほか例示の方法がないが、全体の明るさの配分が以下のように理解される。

明暗の把握は「モノクロ」で理解するのがよい。なぜなら色によって誤魔化されてはならないからだ。カラー表現はとても大切なものだし、モノクロ化するにしても色ごとの反射率は無視できないのだが、フルカラーだろうとモノクロだろうと階調の本質は以下に示したような状態にあるのだ。

●光の面と階調で像を描くとどうなるか
写真には様々な可能性があるから、対象を輪郭で把握して輪郭で描く撮影があっても何ら悪いことではない。だが、立体感やテクスチャーを大切に考えているのであれば、面の明るさを把握する撮影が必須になる。

写真は誕生したときモノクロしか表現できなかった。モノクロだったのはたいそうな理由があるわけでなく、単に色を記録する術がなかったからにすぎない。とはいえモノクロ表現は実にユニークなもので、光の観察と観察結果を写真に定着するうえで大事なことを教えてくれる。フルカラーの表現する場合でも脳内でモノクロに変換するのが重要なのは、葛飾応為「吉原格子先之図」の例で示した。光で描く、明暗の面で考える、階調を考える、立体感を考えるということは、(後々色について深く考察しなければならないとしても)まずはモノクロの階調に明暗を整理することからはじまるのだ。

光の面と階調で像を描く写真を意識すると、自ずと大切にしたい階調、捨ててもよい階調を考えることになって、自分独自の「世界の解釈」「立体感の解釈」が確立する。これが「個性」だ。

写真とは明暗を濃淡に変換して定着させたもので、画像そのものはまったく意味のないものだ。JPEGだろうと紙へのプリントだろうと、そこにあるのは明暗の濃淡だけだ。写真で可能なのは、実在する明暗の濃淡を丹念に記録することだけである。

では写真の「意味」はどこから発生するかというと、主にタイトルや写真の発表方法からだ。そんなバカな、と言いたいだろうが事実だからしかたない。論より証拠、一枚の写真がまったく正反対の意味で解釈される例は古今東西あっちこっちにある。軍隊の進軍を撮影した写真は、タイトル(や記事の文章)と発表のしかたで反戦の主張にもなるし、好戦的なメッセージにもなり、はたまた歴史考証の資料にだってなり得る。政治家の顔写真は支持者には頼もしさの象徴になるが、支持政党が異なる者には嫌悪感しか与えない。写真家にできるのは、現場に赴いたり、スタジオに架空の存在をつくって、そこに実在する明暗の濃淡を記録することだけと割り切ったほうが写真はうまくなる。ようするに頭でこしらえた意味に頼るなということだ。あとはせいぜいタイトルで意味を誘導するだけでいい。

頭でこしらえた意味を込めたいなら構図とポーズと表情、生理的反応に訴える明暗や色を効果的に使うほかない。こうして努力しても伝えられるのは漠然とした静けさ、騒がしさ、危機感、安堵、安定、不安定などといった大まかな「意味の方向性」だけである。いずれも光の面と階調で描かれるもので表現されるものだ。

外形の輪郭を見て、その輪郭を描く撮影とは「人」「美人」「クルマ」「山」といった名詞で物体を描こうとする態度だ。これは漫画の表現に近いものである。漫画を貶すつもりではなく表現の違いをはっきりさせようとしている点に注意してもらいたいのだが、漫画の人物表現はまさに「人」「美人」「善人」「悪人」となどいったキャラクター設定に基づいた記号化に重きを置いている。こうなったのには様々な要因が考えられるが、ストーリーなりオチをシンプルに導くための道具だてが必要だった側面が確実にあるだろう。「人」「美人」「クルマ」「山」といった名詞で思いつく対象の意味を写真ではそもそも記録できないのだ。ならば、光の濃淡・陰影を誠実に記録するほかないのである。こうした誠実な記録から、記号化できない様々な気分が観るものに醸成される。記号化したナニカで伝えたいなら、漫画やイラストエッセイ、その他の方法を取るのが本筋で写真でやるより的確に意図を伝えられる。記号化できない様々な気分を観るものに伝えられるのが写真であり、これで十分であり、こうした写真を撮るのでさえ簡単ではないから考えながら手を動かし続けるのだ。

●みんなが大好きな機材の話
かつて日本のレンズは解像度主義、ドイツのレンズはコントラスト主義と言われていた。解像度主義はわかりやすいが、コントラスト主義には誤解があっていわゆる白黒きっぱりコントラストが高いレンズと誤解されがちだった。コントラスト主義は正確には階調主義であり、適切な階調性を得ることで幅広い明暗を描きつつ見た目のメリハリもあるレンズの意味だ。

印刷された写真から判別できなくても、撮影者または現像して紙焼きを得る人にはツァイスやライカのレンズは違うねと感じられたから、解像度主義の日本のレンズとは違うという評判になった。ただレンズの特性を言い表すのは難しく、しかも多岐にわたる要素をすべて語り尽くすのも無理だ。なので、ここにも様々な誤解が生じがちだ。

たとえば色乗り。ツァイスのこってりした暖色、ライカの油絵的色乗りとかいろいろ言われる。色乗りは、単に発色のよさにとどまるものではない。色が乗らないレンズは、硝材の選び方とコーティングが不適切であると言ってよく、本来なら透過すべき色が減衰または反射してフィルムやセンサーに届いていないのだ。色乗りが悪くても解像度がよいレンズはいっぱいあるのだけど、これは解像チャートが白黒の高周波だから点数が稼げるだけで、もし透過できていない色の反復模様でチャートがつくられていたら解像どころの話ではない。

何を言いたいかとなれば、テクスチャーとは様々な色と明暗差によって写真に記録されるものだ。テクスチャーは構造と色と明暗差と言い換えることもできる。色乗りが悪いレンズは、こうした細部のテクスチャーを余さず記録することができない。色乗りは、単に発色の見た目のよさの話ではないのだ。それでも色乗りが悪いのに解像感があると感じるレンズは、たとえば人物のまつげが解像しているとか遠くにある電線がほっそりきれいに分離しているなどといった部分を見た結果の感想だ。これらは明暗差が大きなものだし、とにかく気づきやすい。

さてコントラスト主義、階調主義だが、ツァイスがコンタックスブランドで復活した70年代からというもの日本の各メーカーも解像度だけ高めても意味がないと思い知らされ軌道修正をかけた。それまでの日本のレンズは解像度は一様に高めるが、階調性については基準すらなく、なりゆきで階調性がよいものもあれば悪いものもある状態だった。もうすこし正確に書くなら、とうぜん開発時に実写テストを行っているのだからボケとか階調性の傾向に気づくのだが、数字で表せる解像度には厳密でも階調性の評価に重きを置いていなかったということだろう。

なぜ解像度を高めるのに一生懸命なのに階調性への比重が低かったかだ。想像だけど、日本の市場では「線で描く」写真、輪郭だけ考える写真がはびこっていて、面と面の明暗でかたちづくる写真に無頓着だったからではないかと感じる。面と面の明暗でかたちづくる写真があったとしたら、それは「ベス単フード外し」とかのソフトフォーカスで、極端にいえば明暗差くらいしか写らないものではないだろうか。これは水墨画の発想と価値観を写真で表現したものだ。冒頭にメキシコの大気と光の話を書いたが、湿度が高い日本あるいは東アジアは物体の立体感が曖昧で、遠くへ行くほど大気の影響でものがぼやける空気遠近が極端に強い。水墨画の手前に黒々した物体、奥に薄墨のかすれで表現する物体という描き方は空気遠近の表現なのだ。ボケ味、ボケの大きさとは日本固有の価値観が世界に浸透したもので、ボケの活用は水墨画のぼかしと関係があるように思う。

こうして考えると高緯度か低緯度か、乾燥しているか湿気ているか、というお国柄が確実にレンズに現れているように思う。光と光が描く立体感がまるで違うからだ。また瞳の色と、明るさの感じ方といったものも人種、民族によって特定の傾向がはっきりしていて、とうぜんこれもレンズの考え方に反映するだろう。私は明るすぎると思えばためらわずサングラスをかけるが、日本でサングラスが実用というよりファッションに止まっているのは黒い瞳のせいだろうし、瞳の色が明るい茶ましてや青といった人々は燦々と輝く太陽の下は苦痛でしかないからサングラスがあるのだ。蛍光灯がぎんぎんに輝く日本の住宅と、うすら暗い電球光の欧米の住宅の違いもまた、彼らはあれで十分に明るく感じるからなのである。ちなみに私は蛍光灯がぎんぎんなのは苦痛なので、電球色のLEDライトを点々と灯すだけにしている。

余計な話にそれたので軌道修正して〆る。もしかするといまだに我が国では写真の階調性のほんとうの意味が浸透していないのかもしれない。

 

 

Fumihiro Kato.  © 2018 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なり人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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