どのような写真を仕上げるかについての答え

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ギタリストのレス・ポールは言っている。「ラジオで流れている演奏を母親が聴いて、これが息子のものだと分かるようになればギタリストとしては一人前」。さすが第一人者は、無駄な理屈や言葉を弄さずさらっと一言で真理を言い尽くす。

これは写真にも言えるだろう。「ネット上の写真を母親が観て、これが息子のものだと分かるようになれば写真家としては一人前」、「写真だけを観て、これがあの人の作品だと理解されるようになれば写真家としては一人前」。つまり裏を返せば、わからないようなら箸にも棒にもかからない。

なかには「手グセを消し去って匿名化した写真でなければ使えない」と言う人がいたり、そういったものが求められる場面がある。変なクセは論外だが(何が変で、何がクセか議論の余地や解釈の幅はあるとしても)、この言葉そのままを良しとするなら撮影者は誰だってよい写真ということになる。これを職人に徹すると言い換える人もいる。撮影者が誰か匿名化する撮影と割り切るなら、自分が切り捨てられることにも文句は言えないし、間違っても表現者をやっていますと言うべきではない。なぜなら、表現でもへったくりでもないからだ。

まあ世の中には、SNSのフォロワー数が一大事の撮影者がいる。たいがいというか、ほぼすべてが毒にも薬にもならない作品というか写し撮った何かを嬉々として掲載している。あれは有象無象とごった煮にしてまぜこぜになったとき、「写真だけを観て、これがあの人の作品だと理解されるようになれば写真家としては一人前」の観点で選別できない。なんともお粗末で、志が実に低く低く停滞しているなと思い我がことを振り返るのだ。だって、あれだろ。そのSNSでの言動が数百年持ちこたえるか考えたら、まず無理だ。なら写真はどうか、と言うことになる。毒にも薬にもならないし、現在そのものと数百年の時間を想定すらしていない即席のナニカで右往左往するなんて虚無そのものである。

他人のことはどうでもよいので、ではどうするかなのだ。センスや美意識がある前提で、表現への欲求に忠実になって、しつこく追求する他ないだろうな。独自性はある日突然獲得されるのだけれど、これはある日何かのきっかけで表現に現れるだけで、長い長い模索によって培われたものが登場しているのだ。だから、鑑賞眼がないとか、教養がないとか、継続的に実験していないとかであるなら、毒にも薬にもならない「俺の作例」しか撮れないことになる。さて「写真だけを観て、これがあの人の作品だと理解されるかどうか」

Fumihiro Kato.  © 2018 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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