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フィル・チェン Phil Chen について、日本ではベースを弾く人の間でさえ話題になるのはほんとうに稀だ。フィル・チェンは、ドアーズ、ジェフ・ベック、ロッド・スチューアートなど様々なバンドやセッションに参加している中華系ジャマイカ人のベース奏者だ。70年代から80年代にかけての曲で、あの音はと思いライナーノーツを読むとフィル・チェンの名前がクレジットされているといった具合だ。
ジャマイカの生家がライブハウスの隣りだったらしく、ドラムとサックスの音から音楽を知り学んだそうだ。フィル・チェンのベースの特色は正確無比なリズムとビートやゴリっとしていてボフッと鳴るフェンダー・プレシジョンベースらしい音色にある。ペッチンパッチンとスラップするような派手な演奏ではないが、彼が参加しているアルバムのほとんどがベースラインを音量高くミックスしていることからも、ミュージシャンならどうしてもそうしたくなるのだろうなとつくづく感じるベースらしいベースなのだ。(動画に視聴制限が設定され表示されない場合は、「YouTubeで見る」をクリックしてください)
しばしばロッド・スチュワートの「DO YOU THINK I’m SEXY ? (Da Ya THINK I’m SEXY ? )での裏打ちドッパパ、ドッパパのベースラインが話題になるけれど、フィル・チェンのベースの特徴を知るにはジェフ・ベックのアルバム「Blow by Blow」のほうが適切な気がする。
「DO YOU THINK I’m SEXY ?」のベースラインをコピーしようとして苦労した話が挙がるのはわかるとしても、それより「Blow by Blow」の一曲目「You Know What I Mean」冒頭でギターのリズムと絡むベースの入りどころのほうが難易度が高いというか、バンドでコピーしたとして単純極まりないこの部分をなかなかカッコよく決められるものではない。
弾けているように思っても、リズムとビートのまとまりが感じられず下手くそに聴こえがちなところなのだ。ジェフ・ベックのアルバムだから下手くそに聴こえないのはとうぜんであるが、ポイントはフィル・チェンの脳内に正確なメトロノームが鳴っていて的確な位置でベースを鳴らし、しかも揺るぎない確信がビートになっているところにある。ヘッドホンにドンカマの音を鳴らして、さらにカラオケのようにココで弦をヒットする位置とお知らせが入っても、1小節内のビートを全体像として把握しきれていないとここまでカッコよく決まらない。
(ドッパパ、ドッパパのベースラインをフィル・チェンは右手の人差し指と中指で弾いていて、ここに薬指を入れて弾きたくなると皆が言っている。まあそうなんだけど、私は10代半ばのとき親指でドッを弾きパパを人差し指だけ、もしくは人差し指と中指で弾いていた。ギターのアルペジオの要領だ。で、いずれにしてもディスコビート特有のリズムで、リズムそのものは難しくない)
フィル・チェンがステージでベースソロを取っている動画がある。
5:40あたりからギターのツインリードの裏でベースラインが際立ちはじめ、やがてギターがアウトしてソロがはじまる。間もなくリズムをキープしていたドラムも消える。しかし、リズムとビートは崩れることなく持続する。最近のプリアンプを内蔵したアクティブベースの音色に慣れ親しんだ人には、パッシブベースしかもプレシジョンベースの音色はサスティーンが短く地味で貧弱に聴こえるかもしれないが、これがベースの生音なのだ。弦だけでなく、ボディーとネックをちゃんと鳴らし切っているベースらしい音色をしている。ああ、いい音だ。弦だけが振動しているのとは違い、ボディーやネックまで鳴りきっていて演奏者と楽器の息遣いが聴こえる。ここでもう一度、「You Know What I Mean」を聴いてもらいたい。ほら、これが弦楽器としてのベースの音色で、フェンダー・プレシジョンベースの音だ。シンセベースに歩み寄ったドンシャリな音もいいけれど、あまりにこうした音色が増えた現代にあってフィル・チェンの音色は実に心地よい。
エレクトリック・ギターの発明からしばらくしてコントラバス(タブルベース)では音量のバランスが取れなくなりエレクトリック・ベースが発明された。このときフェンダーの創業者レオ・フェンダーはコントラバスになかったフレットをネックに打って、誰でも正確な音程で演奏できる工夫を加えた。正確(プレシジョン)な音程で演奏できるゆえ、商品名をプレシジョンベースと名付けた。
フィル・チェンが演奏しているベースは、発売当初のモデルから進化したバージョンアップ版であるけれど本質は変わらない。ピックアップは一つしか搭載されていないし前述のようにプリアンプも内蔵されていない。しかし、他社からもエレクトリック・ベースが発売されるようになってもフェンダーのベースが揺るぎないスタンダードの王道を歩み続けられたのは、さまざまな理由があるとしても音色に普遍性があったからだ。プレシジョンベースが浸透した後、ベース奏者の意見を取り入れて音づくりの幅を広げたジャズベースをフェンダー社が開発したけれど、いまだにプレシジョンベースを選択するミュージシャンがいる。1951年に発売されたプレシジョンベースは息の長いモデルであるし、元ポリスのスティングのように改良前のオリジナルスタイルのモデルを使っている人もいて、フェンダー社はカタログ落ちしたオリジナルモデルを復活させたりしている。
フィル・チェンはジャズベースなど他のベースも使用しているが、プレシジョンベースを中心に使用していた70年代にスタイルが確立されている。どのような楽器も様々な改良が施された後年のモデルになるほど演奏が容易になる。例えばサクソフォンは管楽器の中では新顔に属していて、他のリード楽器より発音も音程を取るのも表現の幅が広い点からも演奏が容易になっている。ベースで言えば、馬鹿でかいサイズでしかもフレットがないコントラバスよりプレシジョンベースの演奏は容易だ。しかし世界初のエレクトリック・ベースであるプレシジョンベースより、ジャズベースやさらに様々な工夫が施された新しいモデルのほうが何かと容易になっている。
プレシジョンベースの音はエレクトリック・ベースのスタンダードになっているとしても、生音はフィル・チェンのソロがそうであったように現代のベースしか知らない人にサスティーンは短いし地味で貧弱に聴こえるだろう。「Herbie HancockとPaul Jacksonとファンクの推進力」と題した記事に書いたが、ポール・ジャクソンもまたプレシジョンベースを使っている。音が太くて倍音が多いため低音側の音程を弾くと音の輪郭が曖昧になりがちなところを、素晴らしいコントロールでちゃんと聴こえる音色にしている。音づくりが難しいだけでなく、弦をヒットする側の手指にパワーがないと楽器を鳴らし切れない。ただし、上手い人がプレシジョンベースを弾くとたまらない音がするのだ。
こうした音色を古臭いと感じるのも別に悪くないし、いちいち苦労してプレシジョンベースを弾くなんて馬鹿らしいという意見も一理ある。そもそもレオ・フェンダーはコントラバスを古びて難しい楽器だと感じてプレシジョンベースを開発している。だけど個人的には、私自身コントラバスからベースを始めてプレシジョンベースを弾いてきたので、いまだこの楽器を鳴らし切れないでいるけれど悪い音色ではないと思う。プレシジョンベースにしろジャズベースにしろ、弦だけでなくボディー更にはネックまで鳴らすことができたときの音色は、音楽の根底を支えつつビートを前へ前へ前進させる底知れぬ魔力がこもっている。フィル・チェンの肉体には正確無比なリズムがあるとともに最高のビート感が宿っている。だから、様々なミュージシャンがフィル・チェンをセッションに呼び、私もフィル・チェンが参加しているアルバムを飽くことなく聴き続けている。派手なギター、派手なベース、派手なドラムなどより、リズムとビートの魔力に惹きつけられて耳をそばだてざるを得ないのだ。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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