宣教師きどりの化けの皮から学ぶ

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近頃、日本において欧米系の人々の言動を盲目的に称揚しなくなってきたのはとてもよい傾向である。ここに至るまでヨーロッパ起源、北アメリカ起源のものごとは概ね素晴らしく日本は猿真似ばかりする劣った文化であるとする風潮が、少なくとも私が生まれた1960年代からずっと続いた。たぶん文明開化の時期と第二次世界大戦の敗戦によって生じ強化された意識なのだろうが、こうした劣等感は日本人にとっての原罪のごとき精神の重しになっていた。したがって欧米人に叱られるのをもっとも恐れ、欧米人に叱られるのを期待する人々もまた存在している。自ら声をあげて何かをするのではなく、欧米人はああやっている、こうしていると指差して事を動かそうとする人々である。お手本は欧米にあるし、欧米は素晴らしいとする根拠薄弱な意見の表明であり、コンプレックスに根ざした文明観から生じる名誉欧米人化願望の典型である。劣った、しかも猿真似ばかりする日本人というステロタイプを受け売りにする猿真似をしているのだから如何ともしがたい精神の病だ。未だにこうした人は多数存在し、「欧米だなんて主語を大きく発言しているのではなく、欧米の優れた人の意見に賛同しているのだ」と言いがちであるがほんとうにそうか実に怪しいものだ。

日本あるいは東洋のすべてが正しいとは微塵も思っていないし考えてもいないが、同様に欧米のすべてが正しいとは思えない。ここに中東とアフリカ、その他の文明文化を加えてもよい。こうした考えを表明すると、かつては右翼、ナショナリスト、ちょっと前からはネトウヨと嘲笑われがちであった。インターネットは玉石混交の情報を世界規模でぶちまけているけれど、ぶちまけ続けることで欧米各国の「石」成分や「汚物」成分も正しい比率で赤裸々になり、いまどきは冒頭に記したように欧米系の人々を盲目的に称揚する雰囲気ではなくなった。この雰囲気は、想像するに宣教師が列島に上陸し布教活動をはじめたとき、キリスト教に帰依する人がいた一方で大いに疑問を抱いた人がいた状況と近いのではと想像する。キリスト教に疑問を抱く人が存在しても不思議ではないはずだが、宣教師が母国の教団に送った手紙には日本人は教義について色々質問し答えに窮する旨が書かれているので、他国ではほとんどなかったか端から暴力沙汰で追い払われていたとわかる。布教活動初期は現代人がぼんやり想像するキリシタン弾圧のごときものはなく、むしろ宣教師たちは寺社仏閣を破壊したり放火したり、さらには日本人を奴隷として国外に売るなどやりたい放題であった。キリスト教の教義云々もあったろうが、これら乱暴狼藉を人々は苦々しく思っただろうし支配者階級は弾圧を加えるようになる。いらないものはいらない、必要なものは吸収する態度、これでいい。

欧米文化のなかで、受け入れがたいし、大いに間違っていると感じるのは「私が思うのだから正しく、私のやり方も正しく、おまえらは粛々と受け入れろ」という部分だ。まさに宣教師のやり方である。いかなる理由でもクジラやイルカを殺すおまえらは野蛮人であり悪であり、俺たちは絶対的正義なので納得する形になるまで嫌がらせを続け小馬鹿にし続けるのだ、という鼻持ちならない姿勢がまさにこれだ。核兵器を廃絶したいから、被爆国のおまえらは黙って国ぐるみで賛同し俺たちを支援しろ。福島県の人々は原発事故に対して暴動を起こさないので奴隷根性の持ち主である。などなど、いたるところで目につく論法である。誰だって核兵器なんてものは全世界一斉になくなればよいと思うだろうが、核兵器による攻撃を経験した唯一の国として悲惨な現実を知っているだけに、周囲を核兵器保有国に囲まれた現状では国を挙げて「核兵器をなくせ」と言えない部分がある。核兵器をなくせと言う矛先に同盟国アメリカの核もあり、「だったら君たちを守らないよ」と言われたとき国軍さえ持たない日本は丸腰で相手と対峙しなくてはならなくなる。打つぞと脅され、報復されないとばかりに核ミサイルを打たれたら我が国は消えてなくなるのだ。理想は理解できるけれど、現実問題としてすべての国から一斉に核兵器が消えて無くなり開発されなくなるなんてことは起こりえないのだから諸手を挙げて賛成できるわけがない。しかし、こうした現実をうやむやにして「私が思うのだから正しく、私のやり方も正しく、おまえらは粛々と受け入れろ」とこちらを見下した偉そうな態度に、「頭が悪いなあ」と最近の日本人は冷静に突っ込みを入れられるようになった。お勉強で核兵器がもたらす悲惨さを知った側が、数代前の世代が悲惨さを経験し現世代も感覚を共有している側へあれこれ説教をする滑稽さを彼ら彼女らは気づいていないし、硬直した教条主義そのものになっているあたりが馬鹿なのである。まして「賛同しないなら核兵器について道義的責任が発生する」と言われては、私たちの神を信じなければ地獄に落ちる的な手前勝手な恫喝にしか聞こえない。

面白いと思うのは、日本人のツッコミ体質だ。宣教師が「神を信じなければ地獄に落ちる」と言えば、「するってえと、ご先祖はみんな地獄ですかい? もう死んじまったご先祖はあなたたちが訪ねてこなかっただけで地獄に落ちて、しかも救われないないなんて変だ」とか「全知全能の神が世界をつくったのに、地獄はあるわサタンはいるわおかしいんじゃないすか」とツッコミを入れ続け、信者が思いのほか増えなかったアレである。大昔の一般人からしてこうであって、現在も極端かつ不合理な論調で挑発する者(例えば前述のICANとか)に日本人は突っ込みを入れ大喜利状態になっている。シー・シェパードやグリーン・ピースがクジラやら自然環境やらの保護を主張しつつ実のところあくどい商売をしているのに反感を覚えるのも、まさにこの点だ。なんかおかしな連中だと国内では薄々感じていたとき世界規模でグリーピース支持が盛り上がっていたが、ようやく本邦の感覚が世界規模で浸透しつつある。どうしたわけか日本人の多くは、極端な主張は裏が有りがちであると察するし、なんらかの正義がともっなっていても強行的かつ暴力的な活動をする輩はまったく支持しないのである。いっとき支持の風潮が広がっても、さあっと冷めるのである。不支持の声が上がり世の中が冷めるまでの期間は、先に挙げたようにインターネットの登場によって加速度的に速くなっている。玉と石を選り分け、玉である情報を掘り出す人が実に多いのも特徴的だ。いろいろ問題は山積みであるが、猿真似ばかりする劣った文化では到底ないのである。むしろ上手いことをして、玉と石を選り分け、石を捨てる能力に長けている。

年末年始にテレビ界隈で顔を黒く塗るコントが悪であるとかどうだろうかとか騒がしかった。モヤモヤしたものが指摘によって対象がはっきりして、さあ ポリティカル・コレクトネスで突っ走るぞと誰かや誰かが策動しはじめたとき、「なるほど、そういう意見があるのか」と考えつつ歴史的経緯から昨今の状況を調べ尽くす人が多々現れ、「日本ではアフリカ系であるだけで差別するのはごく少数で、無視できない数でアフリカ系をリスペクトする人々がいるよなあ」とか「奴隷にしたり植民地化したりで差別し続けた欧米と、我が国はまったく無関係だなあ」と言われはじめ、騒動はあっという間に鎮火されポリティカル・コレクトネスの実態を疑問視する人が増えた感触だけが残った。ポリティカル・コレクトネスは悪ではないが、教条主義に陥り文化文明歴史の文脈を無視して世界統一基準を押し付けるのは変で、さらに権利と利益の関係が露骨なものは逆差別になりかねないのでは、と落ち着くところに着地した感がある。あっという間の出来事であり、恐ろしいまでに冷静な判断だ。ポリティカル・コレクトネスが本来のあり方からズレにズレてこじれている国々にはなかった動きといえよう。今回の騒動の発端が正しかったかやはり間違っていたのかは別にして、今後ポリティカル・コレクトネスが叫ばれるたび同様の検証が個人単位で進められ取捨選択が行われるだろうと思われる。

不憫なのは欧米文化である。産業革命の成功以来は白人至上主義でイケイケドンドンの状態でやりたい放題をしてきて、「劣ったおまえらと優れた我ら。我らが思うのだから正しく、我らのやり方も正しく、おまえらは粛々と受け入れろ」とやってきたのに急転回して方向を変えろと内からも外からも圧力がかかっている。例えばポリティカル・コレクトネスについては急転回できた人も、根っからの文化がこれだから別の場面では「おまえらは粛々と受け入れろ」とやってしまう。よその国はどうなっているか実情まで知らないけれど、少なくとも本邦ではこれまでに書いてきたように突っ込みが入りまくりで笛吹けど誰も踊らずに近い反応しかない。過剰な正しさの押し付けは、当然のこと彼ら彼女らの国内で不穏な空気を醸成させている。元はといえば植民地主義や干渉によって他の文化圏をいじりまくったのが現在の難民問題と直結していても、移民を無制限に受け入れるのが正義となっては国内が納得一色に丸く収まるはずがない。これを対岸の火事と安穏としてはいられるものではないので、我が身我が事と自らを振り返らなければならないだろう。日本もまた、何を早急に取り入れるべきか、廃するべきかかなり厄介な物事が横たわっていて、文化の新陳代謝を進めない限り未来は明るくない。時代を先へ進めようとするなら、新陳代謝の老廃物となんらかの関係がある人は内から外からストレスがかかるだろう。特に「おまえらは粛々と受け入れろ」と内側に向けてやってきた人は、方向転換に失敗するととんでもない化け物になるはずで、自分は関係ないと言い切れる人など一人もないのだ。わずかながら救いがあるのは、この国が多神教的水平展開を基本として垂直方向に厚みを帯びている点だ。左右上下斜めに行きすぎる時代があったとしても、一神教のような絶対的正義の源がないので正義だろうと悪だろうと横からツッコミが入るのが常だ。過去に誤った方向へ暴走していたとしても、こうした平衡感覚を私は信じたい。藪から棒でポイントが外れたツッコミは多いのだが、柔軟な姿勢を保つなら有用なものか無視しても構わないものか判断がつくだろう。いずれにしても頭が悪ければ話にならない。頭が悪い人は往往にして宣教師になったつもりでこーしろあーしろ従えと騒ぎ、絶対的な正義とやらを振りかざし聞く耳を持たないのである。これからの世の中、この手の人が新時代をつくるのではなく、「おまえらは粛々と受け入れろ」的な言動をしてきた人々こそ世の中の変化に対応できず化け物となって邪魔をするだろうから気をつけたいところだ。

Fumihiro Kato.  © 2018 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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