相手をどこまで信用できるか(表現の幅について)

新規の仕事を取るため企画コンペに参加せざるを得ない場合がある。かつて私は宮仕えの時間のほとんどをコンペに向けた案出しに費やさなければならない時期があった。こういった状況の中、要望に叶うロジックはどこにあるか出口を探すのは密林や砂漠からの脱出に喩えたいほど焦りばかりがつのった。絵コンテの素材が手元に届くのがプレゼン前日の深夜になるのはしばしばで、ここから貼りこみや編集の作業を行うことになる。コンテの素材としてのイラストを描いてくださる人はプロなので、こちらが求めた通り要領よく仕上がってくる。しかしイラストレーターはクライアント固有の事情を知らないし、それぞのコンペが抱えた問題も知らないのである。したがって、クライアントが余計な妄想や想像や期待を抱かず、企画のエッセンスだけが伝わるように届いたイラストを拡大縮小コピーしたり切ったり貼ったりすることになる。この辺り、映画のコンテとCMのコンテは違うのだ。

プレゼン慣れしているクライアントも製作畑の諸事情や実務には素人である。ましてや、慣れていないクライアントは絵コンテの読み方すらわからないのだ。絵コンテなんて四コマ漫画みたいなものだろと言うのは大いなる間違いで、読み方を知らないクライアントはこのように読んでいたりする。絵コンテは動画の骨子を説明するもので、イラストとイラストの流れのまま動画に落とし込むものではない。よくある話だろうが、CMのプレゼンをしている最中に「この人の服の色が嫌いだ」的なツッコミを受けるケースがあり、このように本題以外の部分に意識が逸れるのはプレゼン慣れしていないクライアントである。

「相手をどこまで信用できるか」CMのプレゼンを例にして実例を挙げてみた。より一般的な表現物すべてに話題を広げるが、個人的な事情に端を発している表現であっても鑑賞者や読者を想定していないものは存在しないと言える点はCMのコンペと同じだ。たとえばこの文章だが、私は誰かが読むだろうと思い書いているし、長年私の身近にいる人でなくても意味が取れるように心がけている。どこまで個々の部分を説明するか省略するかは、相手をどこまで信用できるかによって変わるので、間口を広くするためここではコンペの喩えをちょっとだけ詳しく書いた。もし私がそうだったように広告関係の人だけに伝わればよいなら、絵コンテのさじ加減は難しいとだけ書けばよいことになる。小学生が口にする言葉が意味不明になりがちなのは、自分の経験と相手の経験との間に溝があると思わず、その場で見た印象だけ伝えるからだ。小学生だけでなくコミュニケーション慣れしていない人は、こうした傾向が強い。見てきたことを伝える簡単な会話だけでも、これだけ技量の差が露わになるのである。

美術でも文学でも他の表現であっても、どこで筆を止めるか表現者は誰しも悩む。それは主観という自分の内側にある物事への理解度と相手の理解度に差があり、くどくど説明しては主題が霞むし、ぶっきらぼうに放りだしては置き去りにされた相手がまったく反応できないかもしれないからだ。たとえば写真だが、一例としては被写体の大きさをどのくらいにするか、あるいはどこまで黒く焼きこむかのような判断を迫られる場合がある。

あなたは広大な画角の中にぽつんと小さく主たる被写体を配置するのが適切と思ったとする。こうして撮影されプリントされたものを誰かが見たとき、「なんにも写ってないじゃん」と言われるかもしれない。「せっかくなんだから、もっとモデルを大きくしなくちゃ」と言われるかもしれない。したがってタレントを観たい欲求から購入される写真集で、「広大な画角の中にぽつん」はページのリズムをつくる際の捨てコマとして使われるか使われないかの稀な頻度でしか登場しない。タレント写真集ではないのだから撮影者が思うまま構図を取ればよいのだが、前述のような反応を写真を見た人は示すかもしれない。ここで相手をどこまで信用して構図を取るべきか問題になる。モノクロ作品をつくるときダークな画面構成にして焼きしめたい(黒っぽいプリントをつくりたい)と思い実行に移した結果、「ちゃんと写っていない」「黒くて汚い」と言われるかもしれない。対象とする人は誰か、写真をかなり鑑賞しなれた人なのか、そうでもないのか、具体的に相手を絞りかねるときはどこまで実行するか判断が難しい。前衛美術や前衛写真という絞り込まれた対象を相手にしているときでさえ、表現が理解されない場合があるのはこういう問題があるからだ。突き詰めれば突き詰めるほど、自分と他人はまったくの別物である事実が立ちはだかる。

凡庸でありきたりな写真が、カレンダー写真と揶揄されるケースがある。カレンダーに使われがちな写真は、カレンダーの機能を邪魔しないとりあえず綺麗でとりあえずカラフルな当たり障りのないものが好まれ実際に使用されているので、このように言われる。こうした実態を前提にして、相手をまったく信用していない写真をプロ写真家はストックフォトに委託する。古今東西の版権切れの名画を使ったカレンダーが大量につくられるのは、絵が発表された当時は喧々諤々の議論を巻き起こしたセンセーショナルなものだったとしても、現在では当たり障りのない「模様」や権威だけが輝くものになっているからだ。では発表当時画家は何を考え創作していたか、である。俺は絵を見てもらいたいが俺の信じるまま相手のことなど考えずに描くという人もいただろうし、パトロンの理解度を基準にして描いた人もいただろう。中には、己の信じるままに描くとちょうどよい具合に時代を刺激し同時に受け入れられる画風だった人も少数だがいただろう。お仕事であるCMのプレゼンなら頃合いはまだ単純だが、創作は人それぞれ何が正解か答えがないとも言える。

ただし、ひとつだけ言えることがある。創作は、どこかにある一線で対象を切り捨てる勇気がないと成り立たないのだ。なぜ創作するのかとなれば、個人の感情や思いが動機となって始まるのだから、不特定多数の一致した心情と合致するはずがない。創作物と、これを受けて心情が動く「発見から共感の過程」は切ってもきれない関係にある。「発見」は未知のものごとに直面したときの状態だ。発見のない既に知っているものへの共感のようなものは、共感ではなく単なる同意である。知っているよ、だけだ。未知なるものとは、思いもよらない対象であったり表現手法なのだから、自ずと創作は相手を裏切る側面が不可欠となる。共感されるであろうと、相手を信頼して放り出すところは放り出すことになる。そうなれば、切り捨てられる人々も居て当然なのだ。このことに、もっと早く気づいていればと悔やまれる。

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なり人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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