保守性と革新性が同居するのが当然

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ここを読んでいる人はパーソナルコンピュータかタブレットまたはスマートフォンを使っているはずで、これらで外付けのハードディスクまたはメモリをバックアップのため使うのは珍しくない。たとえばA社のBという銘柄のハードディスク(あるいはメモリ)で故障を経験せず、C社のDという銘柄で故障を経験してデータを失っていたら、次の機会もA社のBまたはA社の他の銘柄を買うだろう。好き好んでC社のDやC社の他の銘柄を選択する人はそうそういない。データを失うのは人生を失うにも近いことだから、記録装置選びは保守的になって当然だ。斯く言う私はハードディスクに関してWestern digitalの製品とそれ以外を区別している。

私は様々なカメラをこれまで使用してきたが、故障率の低さからニコンと旧マミヤを信頼して現在に至っている。異論はあろうが、これが私の経験則である。他社に突出した性能のレンズがあったとしても、カメラ本体が作動しなければ成果を残せないので、特にボディー側の記録機能について重要度が増したデジタルカメラではニコンを使い続けることになる。

では私が生活の隅々まで保守的かとなると、これは違う。ある面で切断すれば保守性が、別の面を切断すれば革新性と、保守と革新が同居している。私に限らず、すべての人がそうだろう。これまでとこれからの人生のうち失いたくものに関して保守的になるのは当然で、ハードディスクの例を挙げるまでもなく保守的だからと他人が口出しできるものではない。口出しをする人は往往にして「一度試して見たら」と言う。しかし、これもまた往往にして一度試した結果を悔いているので余計な御世話になるのである。中には食わず嫌いで試そうともしない人がいるけれど、食わず嫌いでいることで危険を避けている人に新たなものごとを挑戦させるなら、挑戦の結果の何割かに責任を持たなければ不実である。

ふたたびニコンの例に戻るが、私がニコンを信頼する保守的立場だが、他の人は別のメーカーを信頼する保守的立場であったりする。このように保守と革新の対立軸は、絶対的なものでなく相対的である。革新を標榜するナニカを頑なに信用する人は、そのナニカに保守的になっている。このことからも、他人が容易に口出しできるものでないのがわかるはずだ。ましてや保守は頑迷で時代遅れと、革新性を自認する人が保守派を嗤えたものではない。

保守、革新と言えば政治が真っ先に思い浮かぶ人も多いはずだ。相対的な考えを大枠に適用するなら、保守と革新の勢力が逆転したらかつての革新は保守、それまでの保守は革新に位置付けられるようになる。共産圏、社会主義圏の保守はこれらを党是にしている政党が保守であるし、民主主義を訴える人々が革新だ。現在の体制、社会の仕組みを維持しようとする側が保守であり、別の体制や仕組みにしようとする側が革新。国の体制や社会の仕組みは人々の人生に直結しているので、これまでとこれからの人生を失いたくない人々が圧倒的多数であり、革新しようとする人々は少数だ。それぞれに与する人々の数が逆転するのは、体制や仕組みを革新しなければ人生が無駄になるとはっきりした場合と言える。そして、一度革新を試みて「これはダメだった」と経験したなら、この記憶が消えるまで二度と体制や社会の仕組みがひっくり返ることはないのだった。

2017年を生きる私たちは、某党が政権を取ったことで経済が停滞した時代をはっきり憶えているし、某知事がけち臭いオヤジだったので変えてみたら目立ちたがりのとんでもない人になったのを目の当たりにしている。ここから学ぶものがあるとすれば、「大過なく政治が執り行われているなら、政党なり人物を変えてはならない」というまことに保守的な事実である。ただし「大過なく」の意味は人それぞれであるから、判断は人それぞれであるべきである。政治とは、国民が飢えず没落せず圧迫されず生きるためにある。これまでとこれからの人生を失わないのが前提であるから、当たり前のように人々は保守的になるのだ。政治とは高邁崇高な理念のためにするものではなく、高邁崇高な理念だけで三度の飯が食えるのかという事実を人々は経験的に知っているのである。端的に言えば口先だけの綺麗事で腹がふくれるはずもなく、むしろ首をくくる人が続出するという経験則だ。まさにこういう時代を私たちは経験したのだ。

したがって政権与党のトップが気に食わない、やることなすこと気に食わないと政治活動を試みても、ひどい時代しかつくれなかった某党に二度と与党になる芽はなかったと言える。あの時代の後始末をしなければならないとき、与党を叩くだけの某党を一定数の人々が愚か者と見ていたことだろう。また、このような動きに同調するばかりのメディアに社会の木鐸などとは言わせないと思った人々もいたはずだ。あの氷河期にも喩えられる時代を経験した目に映るものは、この国には現実的な政策を戦わせるだけの野党がないという事実であり、選択肢もまたないという絶望だ。革新的側面が多い人であっても、国民に飯を満足に食わせることができない政党や人になかなか票は入れられないのである。ではあるが、なんらかの得があるとなれば人はどちらにも転ぶ。そっちに票を入れたら食いっぱぐれがないという動機は、野心的で冒険的な党や人に投票する人もまた実に保守的で保身的であり、結局のところ誰だって自分だけは生き残りたいと願っているのを教えてくれる。本能とは、こういうものだ。

生臭い話をしてしまった。生臭かろうと違おうと、人はこれまでとこれからの人生を失いたくない、棒に振りたくないと選択し行動する。莫大な利益から程遠い安全な選択をするのであって、腹がふくれるなら危険な賭けはしないのだ。賭けをするなら己の責任の範疇で行い、賭けに負けた際は無関係な人々を巻き込んで彼らの人生を地に落とす真似だけはしてはならないのである。ましてや、「あなた方のためだから賭けるのだ」なんてお節介なお為ごかしを吐いてよいわけがない。こういう輩は他人を巻き込んだときなんら責任を負わず、「あなた方が選んだのではないか」としゃあしゃあと言ってのけるものだ。誰かの実験用モルモットに進んでなろうとする人はいない。モルモットに立候補するには、失う可能性のものより得るものが大きくなくては条件に合わない。こんな損得勘定で世の中は行きつ戻りしていると言える。

 

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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