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部屋とYシャツと私、みたいなタイトルだな。過日、IKEAでコーヒー豆とジャム、マーマレードとポテトチップスを買った。IKEAのポテトチップスは国内で流通している様々なメーカーより明らかに高いのだが、店頭に山積みされていたのでちょっとお試し気分で買ったのだ。開封して食べながら思い起こしたのはフラ印のポテトチップスで、ご存知ない方も多いかもしれないが日本ではじめて量産、販売されたポテトチップスがフラ印なのだ。もちろん現在も販売されている。何がフラ印を連想させたかというと、ジャガイモを輪切りにした厚み、しっかり揚げられたぱりっとした食感が、いまどき主流になっている薄く、色浅く揚げられたものと違っていたからだ。でも考えてみるまでもなく、ポテトチップスの世界的主流はフラ印やIKEAブランドのようなもので、そういえばアメリカで食べたものもこんな具合だった。
IKEAのポテトチップスをぱりぱり食べていると、ジャガイモを揚げたものを食べているという当たり前すぎる感覚で、日本で大手メーカーが販売しているものは芋感が薄いとはっきりわかる。ただ、これだけは好みの問題なのでどちらも正しいのである。芋感の違いを具体的に書くなら、旧種派のチップスはステーキの付け合わせにぴったりだが、新派は付け合わせには向かないお菓子然としたものだ。そうそう、料理という感じが旧種派にはある。で、さらなる違いは化学調味料が塩に添加されているか否か。
私は化学調味料絶対反対派ではないので、目の敵にして排除したいとは思わない。それでもポテトチップスに化調はいれなくてもよいのではないか、旧種派のチップスの芋感で十分だなと思いを新たにした。しかし、ずっとこういった思いでポテトチップスを食べてきたわけではない。フラ印のポテトチップスに出会ったとき確かに化調はいらないと感じたが、しばらくフラ印を買わず新派ばかり食べ続けこちらのほうが美味いのではないかとさえ思っていたのだ。うーん、でも芋と塩と油だけでいいかな、やっぱり。他に、味の違いとして旧種派は塩味が薄い。
ここに写真を含む表現との共通項がある。
表現はほうっておくと過剰になる。表現で誰かにサービスばかりしていると本質がお留守になる。両者は複合しやすいため、本質を外れた過剰な表現という落とし穴に落ちるのである。いまいちどポテトチップスに戻るなら、ポテトチップスは芋の薄切りを揚げた塩味の食べ物であるが、旨味向上、食感を軽くするなどニーズへの回答が過剰なサービスになると、別物の食べ物になりかねないという話だ。なのだけれど、旧種派と新派どちらもポテトチップスであるのが食べてみればわかる。ここが曲者だし、多様性としては正しくもある。どちらを指向するとしても、表現者としては原典(原点ではないよ)を忘れてはならないだろう。そういうことだ。
「そういうこと」と言い切ったが、言い切って後悔はしていない。本質的ポテトチップスと過剰なナニカによってつくれたポテトチップスの差は、案外微々たるものなのだ。チップスと煎餅との間にある違いほど大きくない。カメラで撮影したものが様々であっても、すべて写真であるくらい微々たる差なのである。だから、気づかぬうちに逸脱するとも言える。うっかりしていたら気づかないくらいなので、重々肝に命じておかなければならないのだ。
ただし、どこからが過剰なのか答えはない。世間にはとうぜんのこと答えはないし、誰かの中にもないのだった。しかも、肝心要の自分もまた即座に気づかないのだ。誰かの批評で、まだ足りない、ちょうどよい、過剰だなんて言い草は場の気分、個人的な趣味でしかなく、すこしも自分の中の目的とリンクしていない。答えは、先へ進む過程で同じ表現を繰り返しつつ見えたものを信じる他なく、これだって今日の正解が明日は不正解ではなかろうかと思えてくる。これだから難しい、よね。
Fumihiro Kato. © 2017 –
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