いま、山本崇一朗さんには神が降りている

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じつに今更ながらの話ではあるけれど、月刊サンデー略称ゲッサンに連載されている「からかい上手の高木さん」はとどまるところを知らぬ勢いで驀進中の作品である。私は漫画に関して食わず嫌いがない性格で、青年誌から少女コミックまでよいと思うものは他人の声に左右されず読んできた。で、表現活動の軸足を小説に置いていた時期に「いま注目している作品は」と問われると常に(小説だけでなく)漫画を挙げていたし、現代では漫画を意識せず小説を書くことは不可能だろうとすら思っていた。そしてちょっと自慢するなら、私の漫画嗅覚は敏感かつ正確なのだ。なので、「からかい上手の高木さん」がヒットしたとき(といってもパイロット版掲載のときから評判がよいのだが)、また的を射てしまったガハハとなった。

タイトルにも書いたように、少年漫画誌のなかで地味なイメージのゲッサンの中で「からかい上手の高木さん」が大いに盛り上がっているだけでなく、同時代の全漫画作品の中でも同作は異彩を放っていて、作者である山本崇一朗さんに漫画の神様が降り立っているかのようだ。とにかく尋常ではない作品で、あのネタでよく連載がレベルを落とさず続けられるものだと思わずにいられない。というのも、中学一年生あたりが舞台で男の子かつアホな西片が同級生で美少女の高木さんにからかわれ続けるだけのネタであり、余計な状況説明や背後にある関係性をストーリーからとっぱらったうえで、月刊とはいえ2013年から現在まで連載が続いているのである。「高木さんにからかわれ続ける西片」ただこれだけなのだ。そしてどれほど世の中に受け入れられているかとなれば、グーグルで「高木さん」とだけキーワードを放り込んで検索して一位から延々と「からかい上手の高木さん」についてのページがヒットするくらいなのである。高木ブーさんも高木美保さんも、どこかの社長の高木さんも、まるで歯が立たないのだ。「からかい上手の高木さん」登場以前は、さまざまな高木さんが検索上位にあったのに。

私は「からかい上手の高木さん」を読むまで少年漫画を見くびっていた。というのも、ここ何十年もピンとくる少年漫画に出会わなかったからだ。満遍なく様々な作品を読んだうえで、私みたいなジジイはお呼びではないのだなと感じ、年齢だけ考えてもこれはこれで順当な話なのだと思っていた。そのうえで、「がきデカ」や「マカロニほうれん荘」の連載をリアルタイムで経験した際の、世の中が漫画でぐらぐら動く感じが最近はないのではないかと考えていたりしたのだ。これは個人の感想で、少年誌にはお化けみたいな作品が、たとえば海賊漫画のアレとか存在している。個人の感想と限定したのは、海賊漫画のアレの読者数が半端ないのは事実で、他の産業にまで何らかの影響を及ぼして世の中を動かす底力は半端ないのだが、私には「漫画世界内漫画」のように思われ、こうした考え方は一般的ではないはずだからだ。「どこが漫画世界内漫画だ! 漫画の枠組みを超えているからお化け作品なのだ」と言われそうである。なのだけれど、海賊漫画は連載されている少年ジャンプの性質からも既存漫画の本流の位置付けにあり、本流であることを悪いとはまったく思わないが、漫画の枠組みや漫画の過去の資産を最大限利用したうえで漫画家が才能を惜しみなくぶつけた作品ではなかろうか。いっぽうで「からかい上手の高木さん」は漫画という枠組みにすっぽりはまっていながら、実は漫画の構造そのものを静かに再構築していると思えてならないのだ。

「からかい上手の高木さん」は山本崇一朗さんの連載作一作目(でいいんだよね?)にして、第一話あるいはパイロット作(読み切りとして同趣旨、同タイトルで発表)から完成されつくしていた。そして、ずっとぶれることなく連載が続いていて、作品に贅肉がつくことも、スピード感が落ちることもなかった。まるで老練な漫画家が連載をはじめたかのような安定感があり、同時に若い漫画家の新鮮さに満ちている。これだけでも驚くべきことなのに、もしかしたら漫画の再構築が日々(といっても月刊だが)進行中なのかもしれないのだ。この再構築は「がきデカ」や「マカロニほうれん荘」が過去に示したほど目に見えて派手ではないが、けっこう大きく漫画の枠組みをゆさぶっている感がある。

「がきデカ」の山上たつひこさんは、「光る風」までのシリアスな内容を「新喜劇思想体系」で一変させた。ここで彼は下ネタとスラップスティック調ギャク漫画の方法論を確立し、この方法論を少年漫画の枠に落とし込んで枠そのものを壊したのが「がきデカ」だった。鴨川つばめさんの「マカロニほうれん荘」は、がきデカショックで少年漫画の枠組みがガタガタに崩壊した少年チャンピオンに、意味そのものを放棄した笑いで過去の漫画世界のみならず他のエンターテインメントの笑いの約束事をぶち壊した作品だ。いまどき漫才で不条理コントは珍しくもないが、こうした笑いは「マカロニほうれん荘」と同時代に登場したコンビ「象さんのポット」が先駆けだったと思われる。子供たちの日常会話中のギャグも、それまでのお約束ギャグだけでなく気が利いた子が不条理ギャグの真似事を交えるようになった変化を私は記憶している。

不条理ギャグそのものは赤塚不二夫さんの作品で既に一般化していたし、赤塚作品は登場するキャラクターからして不条理であった。なのだが、赤塚不二夫さんが漫画の文法をぶち壊す際は、かなり意識的に変なものを描いているらしいのに対し、「マカロニほうれん荘」では漫画の文法(漫画の枠組みの骨格)を唐突かつ日常的に破壊していた。しかも一話中に、何の前触れもなく発作や痙攣が発症するように不条理な笑いが登場する。「がきデカ」でさえ、ここまで発作や痙攣のような唐突な不条理極まりない笑いの仕込みはなく、「死刑」や「八丈島のキョン」と突然こまわり君が叫ぶアレなどはむしろ古典的な喜劇にあったお約束そのものであった。つげ義春さんの不条理漫画「ねじ式」は1968年発表のシュールレアリズム漫画であったが、同作で作者が見た夢をモチーフに次から次へ関連性をぶった切られたシーンがとりとめなく連続するように、「マカロニほうれん荘」は笑いを求めて関連性がないまま不条理なキテレツさが繰り返されるのだ。私は「がきデカ」と「マカロニほうれん荘」両作品から現代のギャグ漫画は始まったと思っている。誰にも伝わらない喩えだろうが、ジャズ調の横に揺れスウィングする山上たつひこさんのギャグ、ロック調の縦に揺れるビートの鴨川つばめさんのギャグ、双方かなりアバンギャルドなノリが現代漫画の基礎をかたちづくっていて、現代ではどちらのノリも他の作家に継承されている。枠組みは破壊された後に、あらたに構築され直されたのだ。

では「からかい上手の高木さん」は漫画に何をもたらして続けているか、である。

その前に、「からかい上手の高木さん」がどのようなカテゴリーに分類されているかを考えたい。漫画のカテゴリーは漫画の枠組みそのものを表していると言ってよいだろう。「からかい上手の高木さん」が紹介されるとき、日常系漫画、ラブコメと分類されている。これに異論はなく、このようにカテゴライズされて当然だと思う。日常系漫画は、最終回まで持続する一貫したストーリーを持たない、(フィクションである場合が多いが)フィクションかノンフィクションか問わず日々のできごとの面白さを表現する漫画だ。ラブコメは、その名の通り恋愛模様を面白おかしく描写する漫画だ。どちらも、「からかい上手の高木さん」の特徴と一致している。しかし私は「そうか、ほんとうにそうか」と、日常系もラブコメも間違いではないが別の表現に踏み込んでいるように思われ、カテゴリーとして適切な言葉がみつからない隔靴掻痒なもどかしさを感じる。

「からかい上手の高木さん」は現在最新刊の5巻に至るまで、初回から一貫し作品に通底するストーリー展開がない点は、たしかに日常系らしい特徴だ。しかし、子持ちの女性となった高木さんが実は西片の奥さんだったというオチの特別回[想い出]があり、これはネタバレ回と言えよう。こうなる運命を期待しながら読者は作品を読み進めてていたかもしれないし、また別の人たちはどこかで離れ離れになるのが人生だよなとうっすら想像していたかもしれない。いずれのストーリーを心に思い描いていても、長くはない一話に両方の要素に符合するコマが織り込まれているところは、山本崇一朗さんの才能がちょっと恐ろしく感じられるほどだ。いずれにしろこうした心情は、一貫した大きなストーリーを読者が思い描いたうえで漫画を読み続けているから生じる。漫画に大きなストーリーがまったく語られていないのに、なぜ読者があれこれ遠い未来を思い描けるのかとなれば、読者が男性なら西片に、女性なら高木さんに感情移入してきたからで、また高木さんがことあるたびに「一生」「ずっと」などの言葉を西片へ投げかけていたからでもある。高木さんから「西片がキスできたら勝ち」というルールの勝負を挑まれる回[21ゲーム]があり、とうぜん西片は勝負に負けるのだが高木さんの「あの勝負 期限ないからね」の一言で、キスするか否かの勝負がずっと続くと示唆され終わる。これらは[想い出]が掲載されるまで、示唆ではあるが伏線ではなかった。なぜなら、最終回まで持続する一貫したストーリーを持たない、日々のできごとの面白さを表現する漫画で、時系列さえバラバラだったからだ。だが、[想い出]をネタバレ回と認識できるくらい読者は二人のストーリーを想像していて、読了後に高木さんのいままでの思わせぶりな言葉が伏線だったとすんなり理解するのである。読者はいつのまにか最終回まで持続するストーリーを、それぞれのかたちで刷り込まれていたのだ。これは「からかい上手の高木さん」は日常系でもあるし、そうではない感じも作品から受ける理由と言えるだろう。

では、ラブコメとしてはどうだろうか。ラブコメにとって欠かせないのが主要登場人物それぞれの背景や背景を踏まえた恋愛の機微(つまり関係性)の変化で、これが「からかい上手の高木さん」では徹底的に省略されている。変化がないのだから、一貫したストーリーは不在だ。ラブコメで登場人物の背景が必要とされるのは、恋愛が人間関係の最たるものだからで、人間関係の一形態である恋愛に焦点を当てるからには個々の人となりについて語らざるを得なくなるためだ。またエンターテインメントである以上、平凡ではない変わった恋愛模様でなければ読者の興味を惹かない。平凡な人が平凡ではない恋に落ちたり、何かが変わっている人が平凡な恋に落ちたり、何かが変わっている人が平凡ではない恋に落ちる事情がストーリーで説明されないなら、読者は何をとっかかりに作品を読んだらよいのかわからないのだ。前述のとおり「からかい上手の高木さん」では、そもそも高木さんは「いつ」「どこで」「どうして」西片を好きになったのか描写されていない。さらに、キャラクター個々の背景情報が皆無と言っても過言ではなく、情報があるとすれば西片はアホの子、高木さんは勘の鋭い美少女で成績優秀といった基本の性格づけや舞台設定として田舎の中学生である点しか示されていない。登場人物の誰もがごくごく普通の人々で、アクが強いわけでも強いコンプレックスを抱いているわけでもない。キャラが濃いか薄いかとなれば、小説では時にあり得る設定だが、少年漫画であるのを踏まえれば圧倒的に薄いと言える。アホな人物と優秀な人物というだけでは、使い古されたキャラクター設定で、現実世界であってもフィクションであってもほとんど情報がないに等しい。

しかも、「からかい上手の高木さん」は漫画の掲載順が時系列に沿っていないため、5巻までで中一の春から冬を自由に行き来している。恋愛が主題であるラブコメでは、予想外の組み合わせである二人が愛情を育む成長譚であるのが定石であるから、西片と高木さんが意外な組み合わせである点を除いて定石を外れている。また組み合わせはやや意外であるが、キャラづくりの基本中の基本ルールが決められているだけで、人格の肉付け要素はからかう高木さんと西片の反応の内から読み取るほかない状態だ。では「からかい」が回を追うごと変化して恋愛の機微が成長譚を成して行くかといえば、ここでも時系列の不在によってトムとジェリーの関係同様に終わることなき永遠の繰り返しだ。掲載順が時系列に沿わず一貫したストーリーが不在であるのは偶然ではあり得なく、山本崇一朗さんが意図的に西片の成長を拒んでいるとしか思えないのである。そして受験期を迎え進路の話題に触れざるを得なくなる中三は、別離か更にからかいが続くのか、このとき西片と高木さんの恋愛の機微が大きく動かざるを得なくなり、シビアな選択をせまられるだろうから、このまま描かれないのではないのか。このような推論から、山本崇一朗さんが「からかい上手の高木さん」で描きたいものは、トムとジェリーの追いかけっこのような漫画だろうと私は思う。

「からかい上手の高木さん」はこのようにラブコメの定石を大きく外れているが、インタビューを読む限り山本崇一朗さんはラブコメとして作品が楽しまれることを嫌っていないようで、ラブコメカテゴリーの作品とされるのを否定する発言がない。いっぽう読者はラブコメとして「からかい上手の高木さん」を読み、回を追いながら高木さんが西片の隠しごとや謀りごとをしようにも顔に出る性格を好んでいるのを出来事から知るようになる。[ポーカー]回では、西片がポーカーでイカサマをしながらも見破られイカサマをし返す高木さんに負けている。勝負が決まった後で高木さんは、「自分がイカサマしてる時は 相手のイカサマも警戒しなきゃね」と淡々と言う。続いて、西片の敗北の表情がコマ1段を割いて描かれ、続く下のコマで高木さんは「じゃ、私の勝ちだし言うこと聞いてもらうね」と俯いたまま席を立ち右のコマで背中を見せ机を立ち去っている。高木さんは西片に要求を呑まそうとし、西片はからかうのをやめもらおうと、二人はこれまで繰り返し勝負をしてきた。高木さんは「言うこと聞いてもらうね」と毎回のように求めてくるが、いつも実に楽しそうで[ポーカー]回で見せた表情を押し殺す描写はなかったのである。ここに高木さんの静かな怒りが表現されている。西片はどのように感じたか知れないが、西片より精神年齢が高い読者は女の怖さを高木さんに見出すはずだろう。ページが変わり、西片は高木さんに「これから毎日 私の日直の仕事 手伝って」「あと一生 イカサマ禁止」と約束させられる。負ける西片と勝つ高木さんのいつものお話とやや趣が違い、シリアスでビターな味わいがそこはかとなく漂う終盤の展開で、かなりはっきり高木さんは嘘がもっとも嫌いだと読み取れる。そして「一生」の一言によって、恋愛や結婚生活でイカサマや嘘を許さないと高木さんが宣言しているのが理解される流れだ。4巻[21ゲーム][ポーカー]に続いて5巻[想い出]と、トムとジェリー形式の回が違っても繰り返される笑いからラブコメへさらに踏み込み、人物の性格づけに深みを持たせ個々の作品に通底するストーリー展開を意識したかのような作品になっている。トムとジェリーで言えばジェリーの家出回のような異質さがある。他の傍目からしたらいちゃいちゃしている度合いが高い回より、一貫した将来へ続くストーリー性あるいは結末感、人格の肉付けといったラブコメらしさが[21ゲーム][ポーカー][想い出]にあると指摘したくなるほど、「からかい上手の高木さん」はラブコメの定石からはずれているのだ。

このようなラブコメは多分過去になかったものだ。『好意が「からかい」となって現れ、からかいによっていちゃいちゃしている』と作品を単純化させたとき、これだけでエンターテインメントであるラブコメとして成立するとは、漫画家や編集者のみならず読者であっても思わないのではないか。なのだが、「からかい上手の高木さん」は連載漫画であり、連載開始から現在まで掲載誌のなかで群を抜く人気作品で、ゲッサンの表紙ヘの高木さん出現率は高いままなのだ。山本崇一朗さんが「からかい上手の高木さん」で描いているのが、トムとジェリーでの身体を張ったスラップスティックなら、西片と高木さんのからかいとからかわれのスラップスティックで、身体を張る代わりに恋の自尊心を張っていると言えるのではないか。西片は精神年齢が低い男子特有の意地で高木さんを好きな事実を認めたくなく、高木さんは理想の恋愛で西片を獲得したくて西片をからかい誘導し続けている。こうしてラブコメをスラップスティックにまで単純化させ成功させた事実は、漫画の構造の再構築に他ならない。日本のスラップスティックの代表例のひとつドリフターズのコントを例にするなら、ドリフターズが芸風を変えぬまま「8時だョ!全員集合」の冒頭22分コントで恋愛をテーマにし続けるくらいの異質さと言えるだろう。

「からかい上手の高木さん」は複雑化しすぎた現在の漫画や、男性あるいは女性の妄想を反映しすぎた現在の漫画をリセットし続けていると言える。まず絵柄からして少年漫画らしく単純化され、山本崇一朗さんの線の数がすくないタッチと合間って、見た目からして「漫画」である。絵柄が単純化されている点は少年誌では珍しくないが、「からかい上手の高木さん」の反響を見るに読者の年齢層が高いのではないかと思われる(私も中年以上高齢未満である)が、こうした読者が日常的に触れ馴染んでいる劇画タッチから大きくはずれている。世の中の反響のほか読者の年齢層が高いのではないかと思われる理由は、少年漫画ではあるが西片と高木さんの恋愛模様を冷静に笑える年代でなければ楽しめないだろうと思われるからだ。若い年代の恋を自らの経験と照らし合わせ、ネガティブな感情さえ想い出に、青春の眩しさを微笑ましさに、と客観視できなければ「からかい上手の高木さん」の面白さは半減するかもしれない。読者が西片と同等の幼さや経験値の低さであったら、高木さんはかわいいかもしれないがやっかいで意地悪な存在、つまり西片が感じているままの存在にしか受け止められないからだ。他のラブコメにも男性主人公をからかったり嗤ったり、あるいは自尊心を傷つけるヒロインは存在するが、「からかい上手の高木さん」の場合はほぼからかいのみを毎回繰り返す存在だからなおのことだ。ラブコメなるカテゴリーは1970年代後半の「うる星やつら」「翔んだカップル」、80年代の「みゆき」から少年、青年誌に波及したとされるが、当時から現在までのラブコメで描かれる男女関係の様々な漫画的様相が、読者の嗜好性に合わなくなってきているのかもしれない。青年誌掲載の恋愛漫画もまた求めているものと違うと漠然と思っていた層に対して、「からかい上手の高木さん」はストレートに訴求したと私は考えている。

現在の少年誌、青年誌といった年齢区分は過去のそれと違いあまり意味のないものになっている現実がある。2014年調査の「コミック誌の読者層」調査「次に挙げる週刊誌のうち、あなたが1カ月に読んだものはどれですか」(毎日新聞社「読者世論調査」、全国満16歳以上の男女回答者数2,387人)によると、ゲッサンでなく週刊少年サンデーではあるが、10代男性15%・女性7%、20代男性19%・女性2%、30代男性8%・女性2%、40代男性5%・女性0%、50代男性1%・女性0%、60代男性0%・女性0%、70代男性0%・女性0%となっている。満16歳未満が調査に答えていないため10代全体の傾向が把握しにくいが、「少年」と誌名にうたっているが実際には青年が読者の中核であるのが理解される。一般的な傾向として週刊漫画誌より月刊漫画誌のほうが読者の年齢層が高いことを考えると、先に示した傾向はより顕著だろうと推察される。この調査では、週刊少年ジャンプは10代後半ついで20代に強く、週刊少年マガジンと週刊サンデーは20代ついで30代に強く、週刊モーニングは30代から40代が強いと結果が出ており、ジャンプの読者がサンデー、マガジンを経てモーニングに移行しているのではないかと読み取れる。ラブコメに限って少年誌と青年誌以上の違いは、少年誌では性的関係は匂わすにとどめざるを得ず、青年誌では逆に直接描写が不可欠と考えられている違いがある。なのだが、近頃は少年誌において裸体描写を過激化する傾向もある。しかし、本来の青年誌が想定する読者層はカマトトは論外としても案外セックスの描写を求めていないのではないかと「からかい上手の高木さん」の動向を見ると感じられる。むしろ同作が描く恋愛の神経戦のほうが場合によったらエロチックであり、体液感がないだけに気楽に存分に楽しめるのではないか。これまでトムとジェリーを引き合いに出し言及してきたが、トムとジェリーの永遠の繰り返しの仕組みを恋愛で提示した作品にラブコメの原点「うる星やつら」がある。「からかい上手の高木さん」は単なる原点回帰ではなく、徹底した単純化と幼い恋愛への「共感性羞恥」を克服した世代のつよい共感によって新たなラブコメを創造し続けているのだ。

「馬鹿野郎。見当違いをくどくど書くな」と山本崇一朗さんに怒鳴られそうだ。ごめんなさい。でも私には、山本崇一朗さんの才能がとても輝かしいものに見えるのだ。漫画でしか表現できないものを、表現しているところに感嘆し、西片の動揺を笑うのだ。

山本崇一朗さんについて、公開されているインタビューで氏が語っている言葉以上のものを私は知らない。したがって、作品を中心に感じたまま、考えたままを書いてきた。だが、「からかい上手の高木さん」と山本崇一朗さんに神が降りていると言える。創作の神、漫画の神は、そうそう作者や作品に降りてきたりしない。このくらい「からかい上手の高木さん」は独自であり傑出した漫画だ。山本崇一朗さんには「からかい上手の高木さん」とほぼ同時期の作品で完結した「ふだつきのキョーコちゃん」がある。氏に申し訳ないが、「ふだつきのキョーコちゃん」は「からかい上手の高木さん」を更に邁進させるブースターとなった作品という感想を持った。「からかい上手の高木さん」と「ふだつきのキョーコちゃん」を比較するとき、シスコンの兄、実はキョンシーの妹のツンデレといった設定に複雑さがある。キョンシーの妹がツンデレという設定は、あきらかに「からかい上手の高木さん」の登場人物にないキャラの濃さがある。ヒカリがキョーコと友達になる、兄妹の周囲への関わりに変化がある。古典的ラブコメ要素であるストーリー性と成長譚があるが、「からかい上手の高木さん」を超える訴求力や波及力はなかった。つまり漫画の神様は「からかい上手の高木さん」を選んで降りてきたのだ。山本崇一朗さんは、このような神様を信仰していないかもしれないが、たぶん「からかい上手の高木さん」の方法論、あたらしい漫画の文法に確信が持てたのではないだろうか。

私は「からかい上手の高木さん」の外形や外周のみトレースしただけで、なぜここまで単純化させたキャラクターで、ここまで魅力的な漫画になっているのか未だ理解でないまま繰り返し作品を読み返し「クスクス、グフフ」と笑ってばかりいる現状だ。したがって、山本崇一朗さんの才能に神様が降りて真の理由はわからない。なのだけれど、山本崇一朗さんの才能が非凡すぎるものであるのは理解しているし、とても素晴らしいことだと感じる。「からかい上手の高木さん」の作品テイストをややはずれる「おまけ」漫画を見るとき、きっと「からかい上手の高木さん」以外の世界も描けるはずで上手く行くだろうとも感じる。

私はけっこうつらい手術を受け入院している間、病室に持ち込んだ「からかい上手の高木さん」1巻から5巻を読んで過ごした。反芻するように繰り返し読んでは、グフフと頬を緩ませていた。いい歳をしたジジイの醜態以外の何者でもないが、ベッドがカーテンで覆われていたのは幸いだった。グフフの正体は作中で高木さんも言っているが「青春しようかな」であり、青春の嬉し恥ずかし感である。実際にそんな場面が自らの青春には存在していなし、似たような経験をあれこれしていても思い出は汚れちまっているのである(中原中也的に)。なのにリアルで瑞々しい読後感で、グフフなのだ。現在妻たる人と同居していて、女性的な存在として女の子の犬もいて、こうした日常から見ても女性の描きかたのリアルさにグフフだったりする。セリフまわしから仕草や表情、そして高木さんの私服がちゃんと描かれてることにも、劇画的なリアルと違う漫画的リアルの素晴らしさがある。とても残酷に女の子のリアルさを感じるのは本編だけでなく、トンネルデートの回に登場した脇役の虫取りの兄妹に焦点を当てたおまけ作品の、「その好意をあの子に」と告げる少女に顕著だったりする。なぜ、こんなに心がヒリヒリする表現が描けるのだろう。これは、巨匠の筆の運びである。脇役のひとり真野ちゃんには、容姿と背格好と髪型にはじまり、表情や言動まで、こんな子が実際にいた記憶とぴたりと符合して、ここでまた心がひりひりするのだ。何度も言及してきたが、高木さんの表情と言動もまたファンタジーでありながらリアルだ。どうして山本崇一朗さんは、ここまで人物を描けるのか。何度でも言いたい。すばらしい才能があるからだ。

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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