内容が古くなっている場合があります。
人は生まれる場所も能力も選べぬまま産声をあげるのだが、いつの間にかこのことを忘れて平等と公平を望むようになる。私だってそうだった。幼い日には兄弟間の平等を、成人しても社会的な上下関係に平等を望んだ。しかし、生まれた時点で不平等なのだから他の人と同じなんてあり得ない。さらに、だ。いったい平等と公平の基準をどこに置くかである。もしかしたら私やあなたは、現在の水準より下へ何もかも合わせなくてはならないかもしれない。それで満足だろうか。満足であるはずがない。
「力がなければ自由は手に入らない。そして、自由がなければ創れない」
(ジェームス・ブラウン)
私はすべてが面倒臭くなったときジェームス・ブラウンを聴く。不眠に悩まされる夜もジェームス・ブラウンを聴く。ジェームス・ブラウンはハイ・ファイでなければダメなんてひ弱な音楽ではない。小さなラジオのスピーカーから鳴るような音でもジェームス・ブラウンのファンクはビクともしない。魂と書いてソウル、の人であるジェームス・ブラウンの才能に浸るだけで幸せになり、満足する。
才能やチャンスの有無にまつわる不平等を嘆いて公平を求めるより大切なのものが自由だ。才能があろうともチャンスに恵まれようとも「自由がなければ創れない」のである。誰からも自由でなければ創れないのだ。誰からも自由であるためには孤立するほかない。群れるなら上下が気になるのが人というものだ。この自由を手にするため必要なのは、ジェームス・ブラウンが言う通り「力」だ。「力」とは何か、具体的に書けば生臭くなるし、ときに政治的に正しくない言葉になりがちで広く大きな声で伝えるべきでなく、人それぞれ求めるもの必要なものは違うだろうから、私が思うところは述べないでおく。
不特定多数の場で言えるのは、専門の力を高めるしかないという事実だ。力とはこういうもので、自由もまたこういうものだ。
Fumihiro Kato. © 2016 –
Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. All Rights Reserved.