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Mamiya 645 PRO が撮影環境に入り、馴染みつつある。慣らし運転を経て作品づくりの定位置につき思うのは、やはりマミヤのカメラだという安心感だ。マミヤの中判フィルムカメラばかり使い続けてきた私にとって、この安心感はうれしいうえに頼もしい。作品づくりの定位置がすんなり見つかったので、末長く使用するため(現状機に欠品していた)巻き上げクランクを探しこれも手にいれた。
Mamiya 645 PRO は1992年から同 TLが発売されるまでの5年間製造されたカメラだ。したがってデジタル化された同社またはPhaseの5000万画素デジタル機くらいまで(まあいろいろあるとしても)使用できる性能のレンズが組み合わされている。ここが唯一懸念された点で、かなり絞りに絞って最適化した手元のデジタル撮影環境に対して、撮影媒体がフィルムであったとしてもナニカが似通っているなら使い所がない。
では実際のところどうだったのかとなれば、明らかに現代風の写りのレンズでとぼけたところであるとか古めかしさは一切ないが、やはりフィルムは撮像素子とまったく違う撮影媒体であると実感させられた。むしろ現代風のレンズであるから、はっきり違いが認識できたとも言える。「なんだ645でこんなに写るなら、RZに固執せずMamiya 645系を使っていれば体力的にも余裕を持った撮影ができたのに」、なのだがフィルムをポジまたは紙焼きで納品するのと高度化した現在のフィルムスキャン環境でデータをつくる差は大きいのだった。いまどきのスキャナーとデジタル画像の編集環境があって、かつての6×7判以上の画像をアウトプットできるのだ。ここにデジタルカメラと共存しつつ、フィルムの独自性を生かせる理由がある。
デジタルカメラによって出力される画像はダイナミックレンジが狭いとされたのは遠い昔の話になり、いまどきはかなり丁寧に撮影し現像してもネガフィルムのほうが階調が詰まっている。このネガフィルムの階調特性を、デジタル撮影によって得られたデータで似せるのは難しくない。似せられないところがあるとすれば、ハイライトだったとしても銀塩粒子の隙間が若干残るところや、アンダーな部分に粒子が残る点だ。たしかにデジタルデータにフィルムの粒状性を真似るエフェクトがあり、それ専用のDXOのアプリケーションも所有しているが何か違う。この何か違う点を私はフィルム独特のニゴリと呼んでいる。
ここから若干オカルトじみた話になるけれど、フィルム独特のニゴリは目に見えたもの物理的に存在したもの以外の霊的浮遊物を記録した領域に感じられる。念、の領域だ。こんなことはあるはずがないので、ローファイ録音の音の隙間のノイズにライブ感があると感じるのと同じ作用なのだろう。で、だ。音楽の世界ではハイファイを選択するのもローファイを選択するのも価値観しだいというか方法論しだいになったが、どういう訳か写真の世界はいまのところハイファイこそ正義のままだ。私の環境でMamiya 645 PRO がデジタルカメラと共存する定位置につけたのは、ローファイではあるが懐古調に陥らない特性で画像を記録できるからと言える。程よさというバランス、だ。いまどきのデジタル環境がようやくフィルムに追いついたとも言える。Mamiya 645 PROではなく後継機のTLでもよいのだろうけれど、TTL自動調光はいらなしいしなあと。
テスト撮影を兼ね : Buddha of Suburbia
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Fumihiro Kato. © 2016 –
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