デジタル中判とフィルム中判

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以前、旧オフィスサイトにデジタル中判はフィルム時代のそれとまったく違うものになったと記事を書いた。そして昨今の1億画素機の登場に「フィルム時代のそれとまったく違う」とますます感じる。

(いまはフラッドベッド式が高性能な)フィルムスキャナーで中判、大判のフィルムをデータ化していて気づくのは、取り込み時の詳細性=dpiを高めてもある段階から実解像度が頭打ちになり、ある段階とは現在の3500万画素機が出力するのと同等のピクセルインチ数であるということだ。で、これはスキャナーメーカーが推奨するdpiの一段階上程度だ。

フィルムは銀塩粒子や色素によって階調が形成されるが、これらは受光素子のようにタイル状にびっしり並んだものではない。隙間はてんでばらばらであり、層を成してはいるが隙間をなくすほどではない。したがってメーカー推奨値であれ、3500万画素機が出力する画像サイズ程度の設定値であれ、あきらかにデジタルの緻密さ、解像感より劣る。私が推奨値より高めの設定でスキャンしているのは、ゴミ取り、キズ取り、(紙焼き時と同じような)フォトショップでの調整など考えてのことだ。さらにデジタルデータからプリントするときの余裕にもつながる。ここらへんは、またいつか独立した記事にするかもしれない。

したがって、フィルム=3500万画素機の画質ではない。そもそもデジタルの画質とフィルムの画質を比較するのはナンセンスだ。これは写真と油絵の画質の違いを問うくらいナンセンスなのだ。フィルムは解像度が悪いとされるているけれど、これはこういう表現形態のもので、デジタル化によって写真はまったく新しい領域のメディアへ移行したと言える。

ただ写真は写真であることに違いはない。同じ土俵で検討するなら、2016年上期の現況ではライカ判高画素機(そこそこ画素数が多い機種を含めてもよい)の能力はフィルムの大判を超えている。大判を密着焼きしたときより解像感があり階調性も優れている。先に書いたように、これはフィルムをいやという程スキャニングした経験から得た確証であり、画素数と銀塩粒子をそれぞれ数値換算して机上の空論で言っているのではない。これは凄まじい話で、8×10以上の巨大なフォーマットより優れた密度の画像を両手の内に収めることのできる小型カメラで撮影可能になったのだ。

私は画素数増加反対主義者ではないので、1億画素からさらに増えたときどうなるか興味を持っている。とはいえ、自分の作品にとって「いま必要なもの」は中判1億画素ではない。いまのところライカ判高画素機とフィルム中判があれば私は作品をつくることができる。私基準は私にだけ通用するものなので、「ちがうよ」という人がいても反論も否定もしない。

なぜフィルム中判をいまさら持ち出しているのかとなれば、ときときして、相手次第で、デジタル高画素機では不必要なものが写りすぎて、綺麗すぎて、つるっとしすぎて、同時に必要なものが写らないからだ。これはRAW現像時にフィルムに似せる粒子エフェクトや色味や階調特性に変換しても変わらない。毛穴が写るとかシワが写る話をしているのではない。オカルトじみた表現しか思いつかないのだが、人物から放射される現実を歪める力、空気を歪める力がどうも写らないのだ。なのだが、デジタル高画素機にしか写せないものがあって、これだけはフィルムには任せられない。フィルムがライカ判でなく中判なのは、先に書いた現実歪曲光線と空気歪曲光線の写りがちょうどよい感じだからだ。

しばしばデジタル中判がほしいというアマチュアがいるが、それはそれで目的があってのことだろうからこれまた否定する気はない。でもフィルム時代の幻影をデジタル中判に重ね合わせて欲望だけが肥大しているなら、冷たいシャワーでも浴びて冷静になったほうがよいだろう。理由は、ここまでに書いた通りだ。もし数百万円の自由になる金があるなら、三脚から現像用PCとモニター、さらにはロケのための顎足代に廻したり、大切な人との食事代など現在の撮影生活の充実に向けるべきだ。と、いっても夢だけが膨らんだ人には届かない言葉だろうが。

というか、これまた既に記事化したがフィルムが入手可能な時代なのだからデジタルと違う位相にあるハッセルとかRZ67とか、リンホフやホースマンなどなどフィルム用のカメラを入手してはどうか。ここに中判、大判を取り込めるスキャナーを買ってもプラス6万円程度だ。どんなデジタルががんばっても画像化できないものを、これらは記録してくれる。数百万円あるなら、暗室用品一式買ってもおつりがくるだろうし。

アンリ・カルティエ=ブレッソンはライカばかり使用していた。なぜなら、自分に必要なカメラがライカだったからだ。写真とはそういうものだ。A全やA倍にプリントしても鮮明!、モニターで等倍観察して感動! なんてものは必要ない人がいても不思議ではないし、そもそもあなたは何を撮影し、どのように発表するかなのだ。では、ブレッソンがライカ判で撮影した写真が、デジタル全盛の現代に見るに堪えないものになっているだろうか。いやいや、時代を超越して写真界の頂点の一人に君臨しつづけ、これだけ便利なデジタルカメラを使っても彼の分野で彼を超える人は現れていない。

技術の進歩は否定しない。むしろ大歓迎だ。だがこれらと別に、自ら必要なものの基準が獲得できず目移りしたり、なにが本質的に大切か決められないとしたら、機材以前の大問題だと思う。で、「いまあなたが追い求めている作品世界に必要なものは何か」だ。えっ? 追い求めるほどでもないって。だとしたら「あらあら」である。

もし私が明日、1億画素の中判機(お高いほうのあのアレ)が(お安いほうのアレでなく)是が非でも表現のため必要になったら、利き目ではないほうの眼球と腎臓と利き腕でないほうの手を売ってでも買う。ほんとうに必要とは、こういうことではないのか。

 

Fumihiro Kato.  © 2016 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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