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写真の撮りかたについての情報がいっぱいあるのはよいことで、このため総じてうまい写真がたくさん撮影されている。あとはここからどれだけ自分にとっての最高を目指すかだろう。さまざまなセオリーや写真的(撮影的)価値観というお約束も身に備わっていてヘタをするとがんじがらめになっている場合さえある。うまい写真とは、たぶんそういうものだ。
人の数だけで性格や美意識があるはずなのに、うまい写真=セオリーやお約束が高度に調和した写真は手癖が消えるのを意味するし、手癖が消えれば誰が撮影したものかわからないというジレンマに陥る。上手とは、こういうことだと思う。
上手は飽き飽きしてくる。さてどうしたものかと思ったら、何かを付け加えるのではなく捨てればよいのは自明の理だ。セオリーやお約束が手癖を消しているのだから、よい塩梅に何かを捨てるほうが近道だし簡単である。撮影をはじめた遠い昔に撮影した写真に、再現不可能なくらいお気に入りがあったりするのはそういうことだ。
それが求められていないなら、きれいな光と呼ばれるものなんて糞食らえと思うことがある。きれいは自分が責任を持って決める。ただし独自に決めたものは、手癖感が強くて当然であって皆が求めているものと違うのは自覚している。ここを押し通せるかどうかだけだ。
© Fumihiro Kato.
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