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年末に床のワックスがけをしながら、私が小学生だった頃の毎週日曜に念入りな掃除をしていた父を思い出していた。こうやって家具を動かして、掃除が終われば配置を変えたりしていたな、と。それでなくても昨年はことあるたび父について考えることが多かった。
年末の掃除の目処がたちはじめた日、母から電話があり父が行方不明になったのを知った。デイケアからいなくなり、兄夫婦が探し回っても警察が動いてもみつからず一晩過ぎたという。例年より冷え込みが厳しい日が続いていた。多少暖かかった数日前でさえ、夜間の冷え込みで亡くなられた人がいたと報道されていた。もう生きていないだろう、と結論せざるを得なかった。
予想だにしない唐突なできごとであるだけでなく、一瞬にして訪れたあきらめだった。
その日から私は一睡もできなかった。悲しいのではない。父との関わりが淡かった私にとって思い出もまた淡白なものばかりだったが、折々の脈略ない記憶の断片が一晩中チリのように舞い上がってとりとめない連想を生むのだった。そして、なにがどうしてそうなるのかわからない漠然とした不安が際限なく膨らんだ。
これを不安と呼んでよい感情かいまだにわからない。恐怖だったかもしれないし、絶望だったのかもしれない。とにかく名づけがたい感情がガスの塊になって全身に満ち満ちた。そして、うごめく連想と無関係に夜中か日中かを問わずとつぜん何度も心臓が謀反を起こすように激しく脈動した。昨日までそこに居ると思っていた肉親が行方知れずになるというのは、その人が人目につかないところで死んでいるというのは、こういう反応を呼び起こすのだと知った。
予想だにしないできごとだったが、昨年は住宅街をおぼつかない足どりでさまよう老女を見かけて気遣い、老いた父への不安を掻き立てられたのも事実だった。父は穏やかな人だったが、それが純化され優しい少年のようになっていた。ただ方向の感覚や短期的な記憶が衰え、判断を間違えやすくなっていた。いやもっと衰えていたのだろうが、息子としては仏のように純化したうえでの現象としたかった。
大晦日が目の前に迫って、父の遺体が川の土手下で見つかった。デイケアからの距離を考えると、行方がわからなくった日に転落していたのだろう。傷ひとつなく苦しみもなかったようにきれいな顔だったそうだ。母は電話口で「いまから収容先に向かう」と言った。
デイケアで父は母のもとに帰りたいとずっと言っていたという。母は体調を崩して短期入院していたから父は病院へ行こうとしたのか、それがわからず自宅へ帰ろうとしたのか。いずれにしろ、母を思いながら歩き続けて足元を誤った。
父は無口であり、しかも愛憎の感情を態度に表すことがなかったので、母への気持ちは冷淡ではないが淡々としたものとずっと思っていた。だが、まったくの見当違いだった。母のもとへ帰りたいと子供のように願い続けていた父の愛を知り、私は涙がとめどなく流れ感情をどのように処理してよいかわからなくなった。この二人の子供として泣き崩れるほかなかった。
もし、このとき泣いていなかったら私はいまよりひどい混沌に陥っていたのは間違いない。
コロナ肺炎禍の影響と年末年始が重なり、より詳しい検死が先送りになったと知らせが届いた。異例な寒さが続いていたとはいえ死から発見まで日数が経過していたうえ、さらに霊安室に安置され続けることからも火葬、葬儀と忙しく行わなけばならなくなった。加えて肺炎禍の猛威によって移動を自粛せざるを得ず、それでなくても老いた母への感染を避けるため私は火葬と葬儀に立ち会えなかった。
別れという区切りをつけられなかったのだ。
父の骨は分厚く太く、大柄と言えない体格だったのに骨壷に収めるのが難しかったと話に聞いた。父より背丈は高いがあとは生き写しの私は、まるで自分が荼毘に付され骨が骨壷に納めきれなかった話のように感じられた。私は間違いなく生きているけれど、すでに命が尽きて骨になったというおかしな感覚がいまもまだ続いている。
行方不明の報に触れてから河原に続く茂みに倒れている父の姿が脳裏に浮かび続け、まさにその通りになり、発見場所の地理を確かめて生々しいまでに具体的な既視感にとらわれ、そのときの父の目に映っただろう風景や感覚が私の経験でもあるかのような妙な記憶じみたものまでかたちづくられてしまった。
顔を洗うたび髭を剃るたび鏡に向かうとき父に似た顔が映し出されるのもまた、私を混乱させる。また、ここに書いたこと、私が知っていることはすべて実家筋からの伝聞でしかなく、さしせまった現実に立ち会っているのに分厚い皮膜ごしのような気がするのも感覚を狂わせている。
世相も影響している。
新型コロナ肺炎のパンデミックは生命の危機にとどまらず、かねてから分断の火薬を数多く抱えていた世界に火の粉を振りまいて社会不安を爆発させた。性別、年齢、階層、指向性、人種、民族となにもかも対立をことさら煽られ、わかりあう前に叩きのめす刺々しさが際立ったし、そっと足をひっかけて転ばせ他人を出し抜く人間の醜さも目立つ。ここに疲弊した経済が拍車をかけている。
壮年期にとてつもない裏切りにあい人生をめちゃくちゃにされた父が抱えたであろう重圧、悲しさ息苦しさといったものに、人の心の荒れようを通して共鳴共振している私がいる。息子として遺伝子を継承しているとする理解では説明しきれない、不可分で渾然一体とした父の存在を体の中に強く意識せざるを得ない。
父にさよならを言う機会を逸し、父の母への愛、他人からの理不尽によってもたらされた終生尾を引いたであろうつらさを浄土へ送れないまま半月が経とうとしている。妻と話をしていても、飯を食べていても、小便をしていても、靴下を履いていても、父がそうしているように感じられてならない。なぜ私はこの世にまだいるのか、とも思う。
私がどうすべきか、これから先も答えは見つからないのではないのか。見つけられないまま最期を迎えるのではないか。
© Fumihiro Kato.
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