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少なくとも本邦でウィントン・マルサリスは人気がない。ジャズを殺しただの、退屈などの言説が大手を振るって闊歩しているありさまで、彼をつまらないと言うのが通であるかのように信じきっている人が多い。たしかに代表作と言えるものに欠けているし、ジャズ・アット・リンカーン・センターの責任者に就いたあたりのインテリ臭が気になるという人の気持ちもわからないではない。だがジャズは黒人の悲哀がなんとかに始まる言説への盲信や、テクニック以上に一般人に理解不能な混沌と混沌の爆発ばかり期待するのはもう辞めたほうがよいのではないか。
好き嫌いはあってもマイルス・デイヴィスはジャズトランペットの金字塔として扱われている。はっきり言ってマイルス・デイヴィスはトランペットを吹くのに向いていない人で、演奏が上手いかというとかなり微妙なところがある。初期から晩年までマイルス・ディヴィスはトランペットを鳴らしきれていない。楽器と演奏者の関係は一筋縄ではいかず、若いとき向いている楽器に転向するのでなければ、最初に手にした楽器を最後まで演奏し続けることになる。マイルス・デイヴィスもスタート地点では音楽も楽器についても無知な素人なのだから、惹かれるままただそれだけでトランペットを手にしたのだろう。マイルス・デイヴィスがすごいところは、まるで自分に向いていないトランペットをどう扱うべきか緻密に研究した点にあって、フレージングから奏法を独自に拡張している。また楽器愛に取り憑かれることがなく、もしかしたらトランペットを信じきっていなかったのではないかと思わされる。
マイルス・デイヴィスはジミ・ヘンドリックスに敬意を抱き、電化以降はギター奏者にジミヘンのように演奏しろと命じ続けている。ジミ・ヘンドリックスはロックギターの神に祭り上げられたけれど、彼もまたもしかしたらギターを演奏するのに向いていなかったのではないかと私は近頃思うようになっていて、短い活動期間に残された演奏を聴くとギターを信じきっていないのもわかる。もしあと少しジミ・ヘンドリックスが生きていたら彼は確実にシンセサイザーを演奏しただろうし、現在まで生きていたらギターシンセやデジタル化されたツールで音楽をつくっていだろう。ファズやワウを使うだけでなく奏法から録音法まで、彼は頭の中にある音をいかに忠実に再現するか考えられたうえであの演奏である。たまたまギターを手に取り、そのギターを使うのが当時としては理想を実現する近道だっただけだ。マイルス・デイヴィスがミュートだけでなくワウ等のエフェクトを使うようになったのも同じだろう。
ウィントン・マルサリスの音はトランペットを鳴らしきれているうえにテクニックについても申し分ない。楽理についてもきちんと勉強してきた人のそれだ。こうした傾向を帯びている演奏家にベーシストのレッド・ミッチェルがいる。レッド・ミッチェルは幼いときから大の音楽好きかつ音響工学に通じた父親の影響を受け、ピアノにはじまり管楽器を経験したあとベースに転向している。教授の嫌がらせで退学させられたとはいえジュリアードで学んだ人であるし、コントラバスの鳴りを改善(正常化)させるため通常の4度のチューニングから5度のチューニングに改めた人だ。5度のチューニングにしても直感だけでなく理路整然とした思考の末に採用している。ウィントン・マルサリスのトランペットがまるでお手本用教則本の付録CDのようにきれいに鳴っていて、レッド・ミッチェルのベースも実に美しく鳴り響いてる。
レッド・ミッチェルは自分は極度の右利きで左手をコントロールする能力が低いと言い、このため左手の運指をカバーする右手のフィンガリングを工夫しなければならなかったとしている。凡人にはマイルス・デイヴィスもジミ・ヘンドリックスも楽器の神であって前述の指摘は高度な領域についてのヘタウマについて語ったが、レッド・ミッチェルの左手もこうした範疇の話だろう。私はコントラバスを弾いていたけれど、ピチカートもボウも彼のように朗々と歌うように鳴らしきるなんてできなかった。そしてウィントン・マルサリスだって人知れず悩むはずだ。だとしても、ウィントン・マルサリスのトランペットは良く鳴るだけでなく濁りのない演奏していて、こんなところが嫌われる理由にもなっている。ヘタウマ的な濁りを徹底的に排除しているところは、ジャズの場合は演奏家としての物語性の否定でもあるし、機械的な演奏と言われかねないところがある。あれじゃあまるでクラシックの演奏家ではないか、といった風にだ。レッド・ミッチェルはミュージシャンズミュージシャンで録音に引っ張りだこで、CDを買うともれなく彼がついてくる的なところがあるから知名度はあれど、レッド・ミッチェルを神格化したりファンであると口にする人は少ない。最近はやや事情が異なるが、やはり物語性が足りないし濁りによる個性もないのが人気がイマイチな原因だろう。この手のタイプに音楽ファンは冷たい。破滅型や手グセばりばり系が大好きな人があまりに多いけど、音楽を聴いているんだよね、小説みたいにストーリーを読んでいる訳じゃないよね?
ウィントン・マルサリスに代表作と呼べるようなアルバム、これ1枚と言えるようなアルバムがないとされるのと、マイルス・デイヴィスでは音楽性の転換点が明確で転換点イコール代表作になっているのは対照的なところだ。マイルス・デイヴィスにとってジャズはわからないものであり続け、しかも教科書的なジャズの説明をまったく信用していなかったため、つくりあげては壊し、またつくりあげるのを続けた。たぶん飽きっぽいところもあって、同じ作法で演奏しつづけると自分が愚かになるような気分でうんざりするのだろう。これは写真家としての私も似たところがあって、しつこく作風を煮詰め続けるけれど、これしかやっていないと馬鹿になった気がしてやりきれない気持ちになる。こうなったとき旧態を破壊すると、先行きどうなるかわからないけれどとにかくほっとするしわくわくできるようになる。だからマイルス・デイヴィスは常にアイデアを求め続け、いわゆるジャズ的ではないものに晩年はたどり着いた。聴き手にとってはこうした変遷はドラマチックではらはらさせられ理想を求める探求者であり前衛で代表作が山ほどある状態だが、逆を言えば傷のない磨き上げられた玉には至っていない。そんなものは退屈だとしていたのが彼なのだ。ロックの世界ではザ・ビートルズが傷一つない玉をつくるのに興味がなく、けっこうやりっぱなしのまま次のアルバム制作に突入していた。
ウィントン・マルサリスは1961年生まれだから、彼がデヴューしたときジャズは既に退潮期にあった。マイルス・デイヴィスだけでなく数多くのジャズマンがあらゆる実験を繰り返した後に世に出てきた人でもある。もちろん1960年代以降に生まれてジャズを更新し続ける前衛の演奏家はいるが、フリージャズやフュージョンなど行き着くところまで来ていたジャズにどう取り組むかスタート時から選択を迫られた世代だ。「新主流派」「新伝承派」と分類されて、まさにそのど真ん中と思うところにも演奏家としてジャズがひと段落ついた後の人であるのを思い知らされる。「新主流派」「新伝承派」と同時代または後から前述のフリージャズ、フュージョン、エバンス派、北欧系、M-BASE派などがジャズから登場しているし、ウィンダムヒルレーベルのように環境音楽的な派生種があるけれど、いずれもどう考えてもジャズのその後であって、既にあるものをどうして行くかの時代だ。こうした中で、ウィントン・マルサリスももちろん試みを積み重ねていて過去と同じことを延々と繰り返している訳ではないが、傷ひとつない玉を磨きあげることでジャズを問おうとしている。
こうした問いはクラシックが通ってきた道だ。ジャズもまたクラシック同様にエンターテインメントのトップバッターではなくなり、幼年期、青年期は遠い過去になった。クラシックから現代音楽が生まれて、現代音楽は調性やメロディーを失ったことで大衆とかなり遠いところに進まざるを得なくなった。フリージャズはスリリングだけど、このスリリングさはクラシック界の現代音楽のスリリングさと似たもので、どう踏ん張ってもエンターテインメントの横綱ではない。「新主流派」「新伝承派」は人々とコミュニケーションが取れなくなったジャズはジャズではないとしているのだろうから、ジャズの文脈と作法をすべて破壊せずに現代的であるのを目指している。ウィントン・マルサリスがトランペット向きでない人であったり、テクニックの人でなかったら彼も別のジャズに進んだに違いない。でも彼はトランペットを鳴らしきれる人でテクニックも申し分ない。自らの体質によって、最適解となるあのようなジャズを求めることになったと私は思う。
アメリカの黒人が置かれている立場はいまだに変わらない部分も多いのだろうが、底辺や中産階級の白人以上に富を手にしている黒人、彼らよりインテリの黒人が増え、社会の底辺に固定された黒人によるジャズという関係性は既にない。インテリの黒人がブルースで嘆き笑うというのはどう考えても嘘くさいし、過去の黒人像やジャズ像を求めるのもおかしな話なのである。もはや存在しないに等しい港町の流れ者やヤクザな男女の恋を、いつまでも再生産している演歌がナンセンスなのと同じくらいおかしな話だ。ウィントン・マルサリスが奏でるジャズは現代のジャズの一断面であって、好き嫌いがあっても当然だがジャズを殺したと言うのは暴言であり、既にこの世にない背景を背負った過去のジャズしか認めないなら昭和の演歌しか認めない人々となんら変わらないのである。これだって趣味性としてはアリなのだから、静かに好きな世界に浸ればよいだけだ。ただし、過去から手渡された未完とはいえかなり磨きぬかれた玉をさらに磨いて現代に問い直そうとしている人を貶すなどもっての他なのである。往々にして「濁り」が個性やコクと受け止められがちであるが、ウィントン・マルサリスは過去のジャズに付着した濁りは演奏者個々の問題であり、こうした個々の問題を片付けたうえでジャズを問い直そうとしているのである。演奏者個々から生じた濁りこそジャズとする圧倒的多数からすると、彼の方法論は前衛ということになる。ここにスリリングな音楽性と個性があるのを見逃してはならない。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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