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ポール・ウェラーはザ・ジャム、ジョニー・マーはザ・スミスをキャリアのスタート地点にして現在も活発に活動している。ザ・ジャムは70年代末のパンク、ザ・スミスは80年代のポストパンクに分類されるバンドだから二人ともおっさんというか爺さんの域に入っているが、二人がアメリカのヒットチャートと無縁なというかイギリス外での人気がいまいちとはいえロックをロックの文脈で今尚更新し続けているのはすごいことだと感じる。というか、ロックはおっさんの音楽に成り果てたとも言える。ジャズが60年代以降、おっさんの音楽、爺さんの音楽になりヒットチャートと無縁なものになったように。
私は熱心なキングクリムゾンのファンであり、同様にジャズを愛している。と同時にファンクが大好物だし、ひっくるめてロックを聴かないとわからないものがあるから60年代から現在に至るさまざまなバンドを日常的に聴いている。もちろん性に合わないものはアルバムを蒐集するほどではない。こうしたリスナー歴のなかで手薄というか好きになれなれなかったのがパンクで、私の年齢からするとど真ん中に位置していてもおかしくないのだが性にあわなかったのである。ブルースにはじまりジャズやファンクといったロックの地層の奥底にある黒人音楽由来のなにかが足りないというか、あの揺れ方が感じられずロックの再興というより文字通りの暴発ではないかと感じる。キングクリムゾンだってブルースと関係ないだろと言いたい人もいるだろうが、彼らはジャズとの接点にはじまってロバート・フリップは「Discipline」以前からアフリカンなリズムに問題意識を持って(どこまで許容するか、あるいは積極的に関わるか)取り組んでいたし、イギリスのフリージャズ界の面々と交流しプロデュースもしている。
パンクが手薄な私は通り一遍にしか聴いてこなかったこともありザ・ジャムとザ・スミスについてあれこれ語ることができない。ただ今聴いてもさほど何も感じないのは確かだ。しかし、ポール・ウェラーはスタイルカウンシルから、ジョニー・マーは昨今の活発な活動で再発見してかっこいいなと思うのだ。ザ・ジャムやザ・スミスのファンの方には申し訳ないが、ふたりともパンク、ポストパンクの時代は音楽の少年期で、以降が青年期で充実期なのではないだろうか。ロックがおっさんのものになったといっても、尻が青い音楽なので音楽までおっさん期になったらおしまいだ。つまり褒め言葉としての「青年期」であり、ふたりは圧倒的にロックしているのだ。
ポール・ウェラーとジョニー・マーはそれぞれ違うものを求めて活動しているので一緒くたにできないが、アメリカのロックやロック的なものと明らかに違うイギリス的なロックであるのは間違いない。アメリカにブルースロック、サザンロックに根ざすマーカス・キング・バンドが登場するなどイケているバンドがあるけれど、たいがいはネジレが足りないか皆無だ。ブルースやロカビリーを輸入したイギリスはどうしても間接的であるし、一旦消化したうえで独自の解釈を施す必要があったので黒人音楽や黒人音楽由来の白人音楽にネジレが生じ、これはビートルズやローリングストーンズはもちろんレッド・ツェッペリンなど古参の人も、以後の人も避けて通れない道だった。ネジレ具合はさまざまだが、ここにロック的なものを感じてきた私にとってアメリカのロックはブルースロック、サザンロック直系のもの以外どうにも違うものに聴こえる。ニルヴァーナは好きだけど、ね。
ザ・ジャムとザ・スミスもまたイギリス的なネジレから誕生している。どらちもネジレまくっている。だがムーブメントとしては別だけど、音楽については演っている当人たちも本質を整理できていない。それがパンクやポストパンクなのだろうし、最初からなにもかもわかっていたらロックなんてやらないだろう。だが両バンド解散以降のポール・ウェラーとジョニー・マーがたどった道筋で、なにが好きで音楽を演っているのか、どうしたいのか物事の単純化を図っている。パンクは単純な演奏形態で衝動的なのだが、故に未整理のままカバンに荷物を詰め込んだようなところがある。私はジョニー・マーよりポール・ウェラーをより多く聴いてきたので彼を例にすると、スタイル・カウンシルはモッズ的解釈によるソウルやファンクからの抽出物でできていると言えるし、バンド名からしてスタイルの評議会だ。ポール・ウェラーは自身のネジレがナニモノか見極めたくてあの時代を邁進して現在のスタイルに至っている。濁り水をろ過するように混沌を整理する必要があり、こうして取り出した要素を突き詰める必要性を感じたのだろう。
ポール・ウェラーとジョニー・マーの現在の音楽は、ギターがジャーンと鳴っているし、アメリカのファンキーさとはぜんぜん別物の縦構造がはっきりしたイギリス的なロックそのものだ。ファットな音色の歪んだギター音で延々ソロを展開するところはないし泣きのギターもない。ローリングストーンズは古参級の古参でイギリス的なネジレロックの本家だが、よっぽどポール・ウェラーとジョニー・マーのほうがいまどきはロックしているように感じられる。ローリングストーンズと別のベクトルにあるアイリッシュフォークの要素が加味されてネジレた恐竜的バンドレッドツェッペリンもすごいのは間違いないし好きだけど、解散していることを差し引いても二人のほうがロックしている。前述のように二人を一緒くたにしてはならないのだけれど、それぞれのやり方でロックという音楽を純化している。
ギタリストが陶酔してソロを弾いたり、ベーシストがこれ見よがしにスラップでソロをバチバチ演る必要と必然なんてないだろ、と二人はわかっている。ジョニー・マーはギタリストだが「ギターは伴奏」とはっきり明言している。これは肥大したロックにパンクが突きつけた問題提起だったが、案外早くパンクが外形的なスタイルに成り果てると二人は見切りをつけているから過去の出身バンドをちゃんと総括できているのだろう。で、結局ロックはナニという話になる。ロックは黒人音楽のブルースから生まれて白人が解釈したビートに乗っかった音楽。イギリスの白い人として黒い人そのものになれないところにネジレが生じるし、どこまで演れるか意識して常にどこまで演るか規定していないとロックから逸れていくので塩梅が難しいところにもネジレが生じる。これがイギリスのロックだ。日本人がともすると祭囃子のビート、古典文学や古典芸能の世界観に陥るように、ロックの文脈で演るならどこまでやったら逸脱して別物になるか洞察し、しかも独自性とアイデンティティをいかに発揮すべきか注意深くなければならないのと似ている(ほとんどすべての日本のフォークシンガーの音楽がとんでもなくダサい領域でどん詰まりになり、しゃべくり芸人化したのはまさにコレだ)。日本ではこのあたりを最初に意識したバンドがはっぴいえんどだった。だから細野晴臣、大瀧詠一といったメンバーと、彼らから生じた動きが後の音楽史を決定づけたのはとうぜんなのだ。
私はパンクに対しての感度が皆無だし、だから何?というところがある。それぞれのバンドの違いはわかっても、それぞれの人々が未整理のまま音楽をカバンに放り込んだ様子は同じように見える。苛立っていたり、はたまた商業的な思惑だったりがカバンに放り込まれていてもカバンはカバンだ。でもパンクはロックとは何かを明確にした。相変わらずのバンドは滅びたし、キングクリムゾンは解散を経てリズムの探求に入ったのが80年代だ。ローリングストーンズのチャーリー・ワッツはロックはガキの音楽と言っていて、本人はご老体になって(嫌だいやだ言いながらも)ストーンズのビートの要なのだから揶揄というより本質を言っているのだろう。尻が青い音楽だ。尻が青いままポール・ウェラーとジョニー・マーは(ここは矛盾を孕んでいるが)年齢相応の音楽を生み出している。この矛盾もまたロック的なネジレでかっこよいのだ。私が好きなキングクリムゾン、まったくジャンルは違うがスティーリー・ダンといった面々は現在尻の青さより完成度を追求してロック(またはジャズ)から派生した世界、純音楽的な世界にある。どちらがロック的な疾走状態にあるかは言うまでもない。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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