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その昔、写真を撮り始めた10代になったばかりのとき「人が写っていない写真なんか撮って面白くもないでしょう」と言われた。下手くそな写真を批評されたとする解釈もあるけど、漠然とした写真に価値なんてないとする価値観がそここにあるのを如実に表しているとも言える。目立って珍しいものがない環境や状況は撮る価値がないと思い込んでいる人もいるだろう。
このような人がいても他人は他人なのでどうしようもないのだが、誰だって何気ない環境になんらかの感情が動くだろうにもったいない話である。私はけっこう漠然とした環境を撮るのが好きで、撮ったからといってどうこうする訳でもなく淡々と現像している。真似しなさいと言うつもりも、言える立場でもないけど、なかなかよいものだと思う。そして思うのだが、こういう漠然としたありふれた景色を作品にできたならよいのだがなあと。
ちょいと注釈を加えるなら、これらは数をまとめると作品になる。しかし、1点あたりの質に「どうなんでしょうね」と思うところがある。質とは、一大事が写っているとか特別な何かがあるとかの話ではないのは説明済みで、選別についての個人的な感覚についてだ。きっと年老いて出歩ける世界が狭くなったら、誰に見せるでもなく毎日こういった写真を撮るだろうとは想像するのだが。
個人的な選別眼について、撮影したもののサムネイルを見るたび考えさせられる。どうして自分基準の「絵」になっていないのだろうと思うし、漠然とした環境を撮影して納得できる状態にするのは難しいと感じる。これが入り口になって、「いやいや、いつものあんたの写真だろ」と思うし、被写体を用意したり被写体を求めて出かけて撮影しているときと発想から構図まで同じなことにちょっと驚いたりする。ということで、何か新たな試みをするには壊さなくてはならない部分がよくわかるのだ。
こうした漠然とした環境の撮影は、知らない町などに目的もなく行く散歩の道すがら行なっている。知らないところをほっつき歩いているのだから、何に出くわすかわからない。宝石や宝石の鉱脈みたいなものに出くわすなんて、そうだなあ数十回から数百回に一度だ。しかも天気を選ばず散歩している最中になにかが琴線触れてシャッターを押しているから、あまり好きではない光線状態だったりする。だからこそ、ますます発想とか構図とかの代わり映えのなさに気づくし、新たな何かにつながるヒントの素を感じるのだ。
なんにもないなあ的な場所を地図や路線図をながめてトンチンカンでいい加減な決め方で選び、路地があれば行き止まりまで歩いたり薮があればわしわし入って行く。どこをどう歩いたか後から確かめると、意外に狭い範囲をぐるぐる回っていたりする。数時間歩き続ける日もあり、そうしても琴線を何かが横切って行くような場所は一、二箇所しかないのが通例。撮影結果は「どうなんでしょうね」な写真だけど、いちいち現像して絵をつくる。こうすると前述した発想とか構図、ヒントの素が浮かび上がる。
現像しないとダメなんだな。こうして出来上がったものは「その他フォルダー」に納める。そして27インチディスプレイいっぱいに表示する。これで客観視できる。その他フォルダーに溜め込んだ良いのか悪いのか判断がつきかねる写真だって、「写日記X町」とかなんとかタイトルをつけてまとめれば作品化しちゃう訳だけど、いまのところまとめる意義を感じない。だけど、淡々と撮影するのは自分を客観視するためだったりする。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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