内容が古くなっている場合があります。
きれいごとほど強力な武器はない。小学校の学級会を思い出せば、大概の人はああそうだねと理解できるだろう。きれいごとが数の力を行使するとき、何を言ってもやっても無駄な抵抗なのである。これもまた学級会で実証済みだ。もちろん教師そのものからしてきれいごとが大好きなのである。きれいごとが好きなのは教師に限らない。役人を動かすときはきれいごとを動機にさせるのが一番で、間違っても本音をぶつけてはならない。きれいごとをまくしたてる人数は多ければ多いほどよい。もし本音をぶつけたいなら、それによって実現されるものごとをきれいごととしてまとめる知恵を授ければよい。役人の世界は学級会みたいなものなのだ。
役人や教師の世界ほどではないが、この世の社会もまたきれいごとが大好きで、大好きだから強力な武器としてきれいごとが行使されるのである。きれいごととは、本能的なもの、感覚的なもの、自由なものの対極にある価値観だ。ぼんやりした正しさらしきものが、きれいごととして口に出され瞬間から異論を寄せつけない圧倒的な攻撃力に変じるのだ。父母を敬い、人を殺めず、姦淫せず、盗むなかれ、嘘をつくなかれ、貪るなかれ、うらやむなかれ等々が代表例である。これらの価値感は平穏な暮らしを営む知恵であるから全面的に否定されるべきものではないが、ほとんどの人に自我があり食欲性欲所有欲美への憧れ好奇心攻撃性があるのだし、生きていれば何らかの過ちをいくつも犯すのが普通だと言える。こうした人間本来の在り方を許さず否定するのがきれいごとであり、きれいごとを武器にする人は過ちをひとつも犯していない素振りをするものだ。こっそり自分の性器に触れたこともなく、あの人の肉体の怪しい魅力にぼうっとなったことも一度たりともなく、これらがあったとしても私の感覚は完全無欠で正常で高尚なもので誰かとは違うと言い張るものだ。
こうした似非聖人のきれいごとに反論するのは大変である。昨今話題の表現規制のアレで言えば、エロと看做される書籍を表の世界から排除する力に反対しようとすると「あなたは変態ですね」「変態性欲はよくない」「あなたの発言は認められない」「海外の先進国ではあれこれ」と声高に言われる。多くの人は変態呼ばわりされたくないので匿名が基本の世界でしか反論できない。たとえ規制されるエロのタイプが興味の範囲外だったとして純粋に表現の自由を叫ぼうとしても、学級会特有のレッテル貼りでエロ親父、エロオタクに分類され指さされるのがオチだ。そして何より厄介なのは、きれいごとを推進していれば間違ってもクビにはならない役人がきれいごとをこよなく愛し、皆さんの声を背景に表現規制にノリノリになる点だ。なぜエロいもの、エロっぽいものがいけないのか、どれがエロなのか議論の端緒にすら辿り着けない。こうして、きれいごとはどんどん捗るのである。そして様々なものが書架から市場から消し去られる。
平穏な暮らしを営む知恵としてエロは隠しておこうという伝統がある。本能的にエロい行為はひっそり行うという動物的な判断もある。だが本能に逆らう行いをいろいろやっている(やりすぎている)人間が、なぜエロだけは隠しごとにしなければならないのか確たる理由を説明できるものではない。最終的に「倫理」が許さないからと教条主義に陥るのが関の山。では倫理とはどのようなものか、なんて疑問は差し挟んではならない金科玉条なのである。私がこう言うと屁理屈と言われるのがオチだけど、子供だって「なぜHなことはダメなの」と純粋な疑問を投げかけるだろう。こうなると大人は頭ごなしに怒るしかなくなるので、子供には見せられない、子供の情操に害を与えるというきれいごとで片付けるほかなくなる。突然白昼の路上でエロいことをおっぱじめる人がいたら、やめろよと私だって思う。でも法による規制とは別に駄目な理由を説明できるかとなれば、できない。説明しているうちに屁理屈が混ざる。法だって、国民が共有する倫理感に基づいて「やったらだめ」としているだけである。でも法解釈は時代とともに変わり、チャタレー夫人の恋人などという貴婦人と庭師がいたすだけのものがエロの悪の権現のように過去には言われたが、こんなものいまどきのテレビドラマでいくらでも放送されている程度のものでしかない。いったいエロと非エロの基準をどこに置くのか、まったくもっていい加減なのである。
児童ポルノに関しては、大人に力でも知恵でも敵わない年端もいかない子供が強制される事例があとを絶たず、仮に両者合意であっても後々肉体的にも精神的にも後悔を残しやすいため禁止するのはしかたないだろう。他人を殴るのはよくない、というのと同じである(と私は思う)。では、児童に相当するキャラクターがエロいことをする漫画、小説、映画はどうなのかとなる。いまのところ小説は蚊帳の外だが図像、映像は日本では18禁または自主規制されている。小説が仲間はずれにされているのは、文芸の力が大いに衰退したからだろう。ただ、それだけの理由だ。しかし漫画や映画(動画)はたとえ非実在のキャラクター(図像)や演技であっても、こんなもの子供に見せられない、犯罪を助長する、目のやり場に困るとされ、どんどん裏の世界へ追いやれている。本当に犯罪を助長しているのかとなれば、児童に対して性犯罪を犯した輩が漫画や映画(動画)を見ていたとしても、もともと一定数いるその手の人がフィクションも手にしていたにすぎないかもしれず、所持していただけでは因果関係はなんとも言えない。むしろ図像や映画(動画)が現代のように容易に閲覧できる時代より前、たとえば戦後まもない頃からしばらくのカストリ雑誌全盛期や文字によるエロ全盛期のほうが凶悪な事件が発生していた。この程度の論証では、きれいごとに立ち向かうことはできないけれどまあそういうことだ。
では、こんなものは子供に見せられない、子供の情操に悪影響をおよぼすというのは、何がどうなることを言っているのかである。そもそも情操というものがわかるようでわからない。辞書的に説明するなら、情操とは美的・道徳的・知的・宗教的の四つの感情だ。しかし、核家族化、家が個室化する以前の子供は親や同居人の生々しい性行為を必ずといってよいほど目にしていたので、こうした時代はいまどきのエロいエンターテインメントからの害以上のもので情操を破壊されていたことになる。夜這い、若者組、姦通に対する現代と違う倫理観、青姦などなど赤裸々なまでに性が扱われていたのだから、昔の子供はとんでもないモンスターだったことになる。どうしたって性的な情報はどこかにあるのだし、子供の肉体にも性的な器官がくっついているのだから、これらといかに向き合うか大人が子供を教育しなくてはならないだろう。とはいえ省力化は大切であるから、エロや体との付き合い方を教えるのは厄介で嫌だという人の気持ちもわからないではない。でもいざというとき教育できない、逃げたいと本音は漏らさずきれいごとを武器にするのが手っ取り早いしプライドも保てるので、「こんなものは子供に見せられない」という曖昧なセリフで逃げを打つのである。穢らわしいとされるSEXによって生を受け、自らも穢らわしいとされる性行為をしているのにだ。それともこういった人は先祖代々尊いSEXが継承され、自らの性行為も他者とは違い美しいものなのだろうか。
皆さんが懸念を述べているように、「だったらanan恒例SEX特集はいいのか」なのである。これは年々過激さが強くなっていて、男の私から見ても随分おかしな男性論女性論が掲載されているし、女性の裸または男性の裸が表紙いっぱいに印刷されている。しかも中面は医学系の書籍やデッサンの参考資料と程遠い扇情的な、SEXをはっきり連想したりSEXそのものを描写したものばかりだ。これでは子供にも見せられないもののはずだが、今のところanan恒例SEX特集はどうなるのかなと懸念する人以外はノーマークのようである。ananに限らず過激な女性向けエロも実に多様に商品化されているけれど、こちらもノーマークらしい。ジャニーズ事務所の公演だって児童が多数の女性たちの前で(もちろん陰部は隠しているけど)裸身を晒しセクシーな動きをしているし、セクシーゾーンとかいう淫靡でいかがわしい名前のグループまで存在している。AKBが実は男の子たちにとってのポルノであるように、女性側にもエロを求める気持ちは皆無でないからこうした芸能や商品が氾濫しているのであって、きれいごとで世の中を掃除をしていけば行き着くところこれらも裏へ裏へ追いやられるだろう。裏の世界に追いやられたものは、ヤクザな人々がそうであるように開き直って過激化し、しかも表の倫理で取り締まりにくくなる。こうなったとき裏産業に泣かされる人々の救済はとことん難しくなる。私はジャニーズ事務所とジャニーズ事務所的な仕事をさせられている年端もいかない男の子がいびつな芸を仕込まれているように思うし、セクシーゾーンだのキスマイフットツーだの赤面してしまう下品な名称は嫌がらせかと感じるが、これもまた表現の自由の可能性だろうと騒がないだけなのである。女性を興奮させるエロは善なのだときれいごと主義者の女性でも言わないだろうから、近いうちに女性向けエロもことごとく表の世界から駆逐されるのだろう。そうするんだよね?
こういった規制の動向はエロに限った話ではない。学級会で教師やティーチャーズペットの学級委員が指差した誰かが吊し上げられるように、きれいごとに反するとされたものごとは何だって撲滅される可能性があるのだ。そんな大袈裟な、大風呂敷の広げ過ぎという人は、手塚治虫の鉄腕アトムでさえ焚書坑儒のごとき憂き目にあったのを思い出したり、歴史を紐解いて知るべきである。1955年以降の悪書追放運動は、手塚のSF作品描くところの高速列車や高速道路、ロボットなどの高度な発展の描写を「できるはずがない」「荒唐無稽だ」と批判し、手塚は「デタラメを描く、子どもたちの敵 」として糾弾されたのだ。気に入らないものは子供のためときれいごとを言い、とことん世の中から抹消しようとしたのである。ということでWikipediaを覗いてみたら、[明治中期には「近年の子供は、夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。これは子供の危機である。」という記事が載り、これによって悪書である小説へのバッシングが発生したりしていた。]などと書いてあった。
日本ではピンとこないし、追放運動をやっている人は限られているけれど、毛皮だって動物がかわいそうだからとファッション界から消えようとしている。そこで思うのは、毛皮を取る人、毛皮を加工する人、流通させる人はいきなり悪人にされ仕事をあっという間に奪われたという事実だ。またまたエロに戻ってしまうけれど、エロまたは愛欲を追求するため漫画表現をしている作家と編集者と出版社の仕事が奪われるのは正義なのだろうか、なのである。ジャニーズ事務所が小児男子を性的に搾取していて不快極まりないとなったら関係者とタレントは仕事を失うが、これはどうなんだろうか。悪いことをしていたのだから当然で、死刑囚のその後なんて関知しないようにどうにでもなれと言えるのかどうか。あきらかに犯罪によって成り立っている性的搾取の市場が潰されるのと同じなのか、である。たぶんきれいごと主義者は、自分には関係ないし興味すらない出来事だとシラを切るだろう。問い詰められ質問ぜめにされたら匿名の海に逃げるのは必至だろうけれど。
現状では多くの人が究極のベジタリアンであるロービーガンの価値観に馴染めないが、彼らは動物や魚介類を食用として扱う職業を嫌悪している。もちろん食べている人に対しても嫌悪している。これが一切の動物性タンパク質を断っている人々の倫理観だ。彼らが不快になるから、牧畜、漁労、屠殺、加工、流通は禁じられるべきで、とうぜん肉食は禁止されるべきなのだろうか。もし彼らが禁止運動を大々的に始めたら、エロは不快であると各自の基準でもの申していた人々は同調しなければおかしい。だって全員でなくても「私」が不快なら禁止、「たくさんの人が不快だから禁止」と規制を強めるように働きかけたのだから、かわいそうな家畜や魚のためにも菜食主義に転向しなければならないはずだ。あなたが肉を食べたいというなら、裏社会にダイブして闇市で闇肉を買い、こっそり食べるほかなくなる。また、LGBTの人々のうち男の肉体を持って生まれた人々が悲しむからと、デンマークは「妊婦の女性」などいくつかの言葉を禁止すると言い出し国連にも働きかけているが、これをおかしい、その手の人々すべてがそう言っているのかと疑問を呈することさえきれいごと主義者はできなくなる。表現規制は最小限に止めるべきだとする人々を、黙れ、屁理屈、変態などと攻撃していたのだから。私は多様な感覚、多様な表現をできる限り守ろうとしてきたし、今もしているので、あの人の多様性と私の多様性どちらも大切なので肉を食べ続けるけれどね。
正反対の出来事として、馬鹿な政治家が宮中晩餐会にLGBTのカップルを招くなと言い出したが、これもまた彼の倫理であり、彼の生理的な嫌悪感から発せられた言葉である。彼はLGBTを心から嫌悪していて、見るのも考えるのも穢らわしいのだろう。表現規制をきれいごとを武器にして推進する人々は、こうした馬鹿な政治家の倫理と生理的感覚を尊重するのだろうか。たぶん、あんな政治家は認められないと言うに違いない。あるいは自分とは無関係と知らんぷりだ。認められない派は倫理に悖る、他人の感覚や権利を侵害している、ファッショ的だなどと言っている。だが馬鹿な政治家を詰(なじ)る言葉は、すべて自らにブーメランのように返ってくるのだ。きれいごと主義者は、自らの倫理、自らの生理的な感覚から表現物を選別し、価値観が異なるものはとことん排除し禁じられるべきだと言っているのだから。それでも恥じないなら、自分は常に正しいとする異常者ということになる。現に異常なんだけどね。
などと証人陳述をしても、学級会社会では何の助けにもならないのである。なので私自身の話をすることにしよう。児童ポルノ関連でいえば、作家としての私は児童の性を描写する可能性が残されているが、写真家としては児童の裸像あるいは裸像と見做される表現は撮影することも撮影したデータを所持することもできない。裸像でなくても扇情的とケチをつけられたら逮捕されかねない。いくらポルノではなく芸術だと言い張っても罰せられるだろう。だが油絵、水彩、版画、日本画、工芸で同じモチーフを描いたものを一律に禁じられているポルノとするのは現行法では無理そうだ。これってどういうことなんだろう。漫画雑誌に前述の絵画表現が掲載されたらポルノなの? それとも写真は具象性が極限まで高いからポルノなの? スーパーリアルの手法で描かれたら絵画でもポルノ? と。この問いに答えられる人なんていないし、わざわざ法廷に立って判例づくりをする暇もないし、結局はきれいごとが勝つならと多くの写真家は(もしかしたら撮影しているけど)作品を公開していない。一般的なエロでも、コンビニでは誰かが不快になるからエロはご禁制で、画廊に行く目的は限られているから作品を展示してもOKなのか。では美術館は? 映画館は? 書店は? 画集は? エロサイトは? どうなのか。こんな問いを無人の虚空に問うてもせんなきことだが。
私の姪は美術関係の芸術家だが、ある公的スペースで彼女と会話しているとき白いワンピースを着た小さな女の子が通りかかり、私たちの目は釘付けになった。
「ああいうのいいなあ」
「うん」
と答える側から姪は鉛筆でメモ帳に小児女子をデッサンしはじめた。
「写真だと撮影するまでの手続きがいろいろうるさいんだよなあ。スナップできたのは昔のことで」
「わかる」
「しかも、おじさん男だし」
「あー」
日焼けした肩と白いワンピースが織りなす切ない美しさはエロスだ。小児女子に性的嗜好のない私も、女である姪もそう感じている。きれいごとを錦の御旗にする人々にとっては私と姪は変態なのかもしれない。暴力性を秘めた男性という性に生まれ落ちた私は、特に変態で非倫理的存在なのかもしれない。そこまで思われていなくても、キモいのだろう。なになには男根の象徴、キャラクターにすぎない図像がエロの権化と気づく人と同じくらいキモいのだろう。
Fumihiro Kato. © 2017 –
Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. All Rights Reserved.
なお当サイトはTwitterからのリンクを歓迎しません。