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レンズの演色性について寒色、暖色、濃厚な色乗り、あっさりした色乗り、色乗りが悪いといった評価があることを撮影者の多くが知っているだろうが、演色性は色だけでなく階調性と関わりがある点は忘れられがちだ。「階調」と言われると、黒から白へのグラデーションが思い浮かぶかもしれない。しかし自然界は多様な色で構成されていて、人間の顔を例にするなら髪の色、肌の色、眼の色、唇の色、ここにメークの色彩を含め、黒から白への単純なグラデーションだけではどうにも説明がつかない。こうした様々な色は赤、黄、緑、シアン、青、マゼンタなどと無段階に連なる色相のどこかに位置し、それぞれの位置から色相環を円周方向に、さらに彩度と明度の各方向へ「階調」を成して変化している。つまり写真の階調を説明する黒から白への無段階の変化は、あくまでも一般例であり、喩えにすぎないのだ。色を含めるとあまりに複雑なので、単純化と抽象化の結果として黒から白の階調が例示されているにすぎない。このように考えるとレンズの演色性が色そのものだけでなく、階調と密接に関係しているのが理解されるだろう。
蛍光灯の光はスペクトルが偏って緑に大きなピークがあり同時にマゼンタに癖があるため演色性の悪い光源とされる。演色性のよい光源は太陽光で、スペクトルには各波長とも満遍なく揃っている。可視光線の波長を満遍なくフィルムやセンサーに届けられる性能を持ったレンズを理想的なレンズと仮定したとき、緑以外の波長が減衰されるレンズはとうぜん理想的ではないと言える。緑以外の波長が極端に減衰されるレンズで撮影したなら、きっと蛍光灯を光源にして撮影したときと同じようになるだろう。デジタルカメラではホワイトバランス機能で蛍光灯の偏ったスペクトルを補正するが、フィルムを使用する際は偏ったスペクトルのクセを打ち消す色フィルーターを使ってカラーバランスを補正する。レンズそのものが光のスペクトルを満遍なく透過できずに特定の波長域を吸収してしまうなら、これは色フィルターを装着しているのと同様の結果になる。もちろん実際のレンズでは市販されている色フィルターより微妙なスペクトル変化だが、レンズの演色性とはこういった特徴や傾向を示す言葉だ。個々のレンズの演色性の差は透過されるスペクトルの偏りの差や違いである。
モノクロフィルム用のコントラストフィルターに赤や黄色といった種類がある。赤フィルターを使えば補色関係にある空の青は暗く描写され、赤から黄色の範囲にある色は明るく描写され階調の推移が丸められ省略される。結果として、コントラストがとても高い写真になる。このとき青と、赤から黄色の範囲にある色彩の階調は、実際の風景と異なるものになっている。どちらも極端な階調に描写されるため「コントラストが上がった」とされる。この赤フィルターを、レンズの演色性に置き換えて考えてみたい。当然のこと同じ作用をもたらして、自然界に存在する階調と違うものが写真として記録される。演色性が階調に影響を与える内容は、大雑把に言えばこのような作用から生じている。実際には冒頭に書いたように色は複雑な変化をしているし、レンズの演色性も複雑であるため、ここまで単純な話ではない。
寒色系のレンズは、往往にして色乗りが悪いレンズだ。青に主張が強いレンズは、寒色系と言わないし色が乗っているから青に主張が存在するのだから色乗りが悪いとは言わない。どのような傾向か問わず、レンズの演色性は硝材とコーティングによって決定される。レンズが特定の波長域を吸収し減衰させたら、自ずと吸収された色は減衰した量しかセンサーまで届かない。現代ではコーティングはレンズ表面の反射を抑えるためだけでなく、透過させるスペクトルを積極的に操作し、様々な硝材が組み合わされた1本のレンズの演色性をナチュラルなものにしている。レンズの色乗りが悪い原因はほとんどはコーティングにある。特定のメーカーはどのレンズも総じて色乗りが悪いと感じている人がいることだろう。これは何らかの主義で色乗りを悪くしているのではなく単に技術水準が低いのだ。
Sというメーカーのレンズは総じて色乗りが悪い。しかし、チャートテストなどでは高得点をマークする。私がSをレンズの選択肢に入れていないのは、カラーで撮影するとき演色性の悪さが気になるだけでなく、明らかに階調性がおかしいからだ。この会社のレンズは色乗りが壊滅的で、光線状態次第でおかしな色が突出する。コーティングの技術が、純正を含め他社より二時代以上前で時間停止している。停止していないかもしれないが、あまりに無頓着すぎる。こうした色乗りの悪さ、階調のおかしさは、大口径レンズでは性急すぎるボケを見かけの上で生じさせる場合がある。色フィルターの話を思い出してもらいたい。特定の波長域、あるいはいくつかの波長域の光が減衰してセンサーに届くなら、現実の世界に存在する階調と異なるものを記録した写真になる。ピントが合っている面の前後に適切な階調(トーン)が存在しないため、輝度や彩度、明度が推移するのに応じたディティールに欠け、情報が足りないためボケが急激に始まるように見える。そこに何かがあるからボケの推移がわかるのだ。もちろんここには設計時の収差補正のクセも関係しているだろう。こうしたSのクセは他社と比較して人によっては微々たる差かもしれないが、ボケに限らずピントが合っている面ものっぺりした印象になるケースがあり、やはり気になるものは気になるのである。極論するとSのレンズの解像力が生きるのは毛髪やまつ毛、何らかの輪郭を持つ部分、比較的大きな輝度差や彩度差等の反復がある部分くらいに限られる。こうした特性について指摘するカメラ評論家を知らないし、なぜ色に限ってもコーティングに苦言を呈しないのか理由がわからない(ほんとはニヤニヤしつつわかっているけどね)。
ツァイスは演色性がよいとされる。濃厚な色乗りと評されるが、この表現も不十分な気がする。発色は比較的ナチュラルだが、日本人にとってのバタ臭い欧州の色だと感じる。これはドイツ人が理想とする色調であり、たぶん緯度の違い、空気の乾燥度の違い、歴史的背景などに大いに影響されていると思う。日本列島に届く太陽光と北部ヨーロッパに届く太陽光は違い、違う太陽光下で、民族もまた違い、こうした異なる条件で人物の肌が理想に近い発色をするよう調整すれば演色性全体のバランスも自ずと変わる。つまりT*コーティングで意図的につくっている色だ。したがってレンズを透過するスペクトルが操作されているのだが、(私は)階調性について変な癖を感じない。解像度主義一辺倒の風潮を覆して、コントラスト(階調)重視設計の時代をつくったメーカーだけのことはある。国内カメラメーカーの純正レンズもまたナチュラルな色の再現性を目指し実現しているし、国内のサードパーティーも先の例を除けば同様だ。写真とはどのようなものか理解している人がいて、解像しなければならないのは目立った輝度差のあるポイントだけでなく、階調を織りなす色を含めた複雑な細部(ディティール)であるとして、設計しているのだろう。公平を期すなら、ツァイスのボケはボケに鈍感な私にもうるさく感じるときがある。これが収差補正のクセによるものか他の要因も絡んでいるのかは、こうした知識がからっきりダメな私にはわからない。
レンズにおける演色性は色だけでなく階調性にも影響する話を書いてきた。色の濃淡によって形作られている階調のほうが、無彩色の階調より圧倒的に多いのを考えればとうぜんだが、ともすると忘れがちになり色の派手さの話に収束しがちだ。前述の解像度主義の終焉からコントラスト(階調)重視設計への変化は、たぶん偶然だろうがコーティングによる演色性統一の機運が高まった時代と歩調を合わせている。ツァイスがヤシカ、京セラによって復活する以前から、木村伊兵衛は「あらゆるレンズには必ず出っぱっているところと引っ込んでいるところがあり、平坦性が悪くピント位置が定まらない。ピント位置が少しでも移動すると中心が良くなったり、外側が良くなったりする。レンズは立体物を撮るのだから平面チャートで数値を問うだけではわかり得るものではない」と提唱していたし、木村はライカのレンズに高評価を与えていた。最高のレンズを決めるなんて価値観の相違があるから無意味だが、こと写真について何が大切かドイツの光学メーカーが知っていたのは間違いない(現在はどうか知らないけれど)。最終的に出力する画像は人それぞれの作風に沿ったものになり、レンズが10の情報を透過しても4を捨てる人がいても不思議ではない。しかし存在するものは捨てられるが、存在しないものは捨てられない上に、捏造しきれないのが写真なのだ。
Fumihiro Kato. © 2017 –
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