中判のお作法 ピントや画質の問題(過去記事を推敲校正)

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「中判のお作法 ピントと画質について」と題した記事を書いたが、説明がわかりにくいうえに誤読されかねない表現があったので推敲と校正を行い当記事とする。後日、過去記事は抹消する。

ライカ判を基準にしたとき、当然ながら中判フォーマットはフィルム1コマやセンサーのサイズが大きい。この大きなサイズの露光媒体でライカ判と同じ画角を得ようとするなら、レンズの焦点距離は長くなければならない。下図を見てもらいたい。焦点距離がXmmのレンズが存在し、このレンズが中判の大きなフィルムいっぱいに画像を結べるとき、焦点距離はこのままで露光媒体をより小さなフォーマットが撮影できる範囲(画角)が如何に変化するかを示してみた。

同じ焦点距離でも露光媒体のサイズ如何によって画角は変化する。中判とライカ判を比較すると、焦点距離は同じでも中判のほうが広い画角になる。これは中判の撮影画像をトリミングしてライカ判相当にした場合を考えれば理解しやすいだろう。

現在デジタル中判のフォーマットは、かつてのセミ判にだいたい準拠した3:4のアスペクト比を持つセンサーを使用している。セミ判がほぼ4.5×6cm(いわゆる645)だったのに対し、同等のサイズのセンサーもあるが、かなり小さめのものが一般的だ。いずれにしてもライカ判より長い焦点距離のレンズを使用しなければ同等の画角を得られないのである。

レンズの焦点距離により被写界深度が変わり、焦点距離が長いほど被写界深度が浅いのは誰もが知っている通りだ。

被写界深度は、錯乱円と関係がある。錯乱円は焦点が合っていない場合の、1点に光の束が集約されないときの光の円だ。焦点が合っていない状態でも肉眼でさも合っているように見える光の円を許容錯乱円と言う。これが被写界深度が及んでいる範囲の状態である。

フィルムは引き伸ばして鑑賞するものだ。同じ大きさの紙焼きを得るとき、小さなフォーマットでは拡大率が高くなり、ボケもまた拡大される。大きなフォーマットでは拡大率が低く済むので、ボケが拡大される割合もまた小さい。フィルムを使用する中判の場合、ライカ判と同じ画角を得るためより長い焦点距離のレンズを使用するのは前述したが、被写界深度が及ぶ範囲はライカ判の同じ焦点距離のレンズより広い。これは錯乱円が大きくても、拡大率が低くすむためボケが拡大されないためだ。

ライカ判 / 焦点距離 80mm / 被写体まで5m / F5.6 / のとき被写界深度は1.488m
セミ判 / 焦点距離 80mm / 被写体まで5m / F5.6 / のとき被写界深度は2.482m

同じ焦点距離、同じ絞り値、同じワーキングディスタンスのとき、拡大率が低くすむ中判は被写界深度が深いのだ。

だが、もう一度冒頭に記した画角の関係を思い出してもらいたい。ライカ判にとって焦点距離80mmは中望遠の画角だ。セミ判(645)にとって焦点距離80mmは標準レンズの画角である。つまり、ライカ判の焦点距離80mmで得られる狭い画角相当の範囲をセミ判(645)の焦点距離80mmのレンズで実現するには、同一のワーキングディスタンスでは遠すぎるのである。この条件でセミ判(645)がライカ判相当に被写体の大きさを捉えられる3mまで近づくと、被写界深度は0.862mまで狭くなる。

ややこしいので整理してみたいと思う。

1.フォーマットが異なれば、フォーマットのサイズに応じて同等の画角を得るため必要な焦点距離が変化する。
2.同等の画角を得るとき、大きなフォーマットほど必要な焦点距離は長くなる。
3.フィルムでは鑑賞に必要な拡大率によってボケの見かけの大きさが変わる。拡大率が高ければボケもまた大きく拡大される。
4.被写界深度とは、ピントは合っていないがボケの大きさが小さいためピントが合っているように見える範囲のことだ。
5.フィルムを用い同焦点距離のレンズで撮影するとき、鑑賞時のサイズが同じなら、ボケの拡大率が低い大きなフォーマットのほうが被写界深度は広いことになる。
6.しかし、同じ焦点距離のレンズを用いるとき、大きなフォーマットは小さなフォーマットより画角が広いので、被写体を同じ大きさに撮影するにはワーキングディスタンスを詰めなければならない。結果として、被写界深度は浅くなる。
7.同じ画角のレンズなら、大小いずれのフォーマットでもワーキングディスタスは等しい。大きなフォーマットでは小さなフォーマットと同じ画角を得るのに、長い焦点距離のレンズを用いなければならない。したがって、大きなフォーマットでは被写界深度が浅くなる。

ただし、デジタル写真では許容錯乱円の考え方をフィルムのそれから変えなくてはならない。デジタル写真はセンサーがフィルムの代わりであり露光媒体だ。厳密に言えばフィルムの場合でも、感光させる銀塩粒子の大きさによって被写界深度の幅は変わった。微粒子フィルムでは、許容錯乱円の径が小さくなり、厳密にピントを合わせないとピンボケがはっきりわかった。粒状性が悪いザラザラした見た目の写真ではどこにピントが合っているか判断しにくいが、これは銀塩粒子が大きめのフィルムで被写界深度が深めになり、微粒子フィルムでは浅くなるのと同じ理屈である。つまりセンサーの画素数が上がる(1画素を構成するセンサーサイズが小さくなる)と、ピントが合っているように見えるときのボケの径は、低い画素数の場合と比較して小さくなくてはならない。許容錯乱円は小さくなり、より1点に光の束が集約されていなくてはならない。レンズに距離や絞りの値とともに刻んであった被写界深度目盛りは、標準的なフィルムで標準的な拡大率のとき、ピントが合っているように(ほぼ)見えるとされる範囲を示していたにすぎない。露光媒体がセンサーになると、微粒子フィルムの銀塩粒子より1画素は小さくなり、さらに日進月歩で高画素化しているので、かつてのように許容錯乱円を考えたり扱ったりしにくくなった。

これは被写界深度が消滅したことを意味しない。デジタル高画素機でも、ピントが合っていると感じられる奥行きの幅は存在している。フィルムと比較して、まったく扱えなくなってもいない。たとえば超広角15mmをライカ判に装着していれば、F8程度に絞ったときパンフォーカス的に撮影できるし、パンフォーカス的な画像にもなる。なのだが、銀塩粒子のように気ままに並ばずタイル状に整列した小さな1画素は、以前のようにラフにピントを合わせてもよいものではなくっている。

また、同じ画像サイズの写真をつくるとき、同じ画素数ならデジタルカメラのライカ判だろうと中判だろうと拡大率が変わることがない。デジタル写真ではフォーマットの大きさではなく画素数で画像の大きさが変わる。5000万画素のライカ判センサーと5000万画素の中判センサーが生成する画像サイズはまったく同じだ。もし5000万画素のライカ判センサーと3000万画素の中判センサーを比較するなら、画素数が多いライカ判のほうが画像サイズは大きい。ここでも、かつてフィルムを使用していたときのように許容錯乱円を語るのは難しくなり、画素数を考慮しない訳にいかなくなる。先に挙げた焦点距離80mmレンズでの被写界深度の比較は大雑把すぎて、デジタルではあまり意味のないものになる。

高画素化が著しい現在では、被写界深度への感覚は頭の中をがらりと切り替えないとならなくなった。以前から中判はがっつり絞り込まなくては被写界深度が稼げなかった。ボケが大きくてよいというメリットより、必要な被写界深度すら得られず苦労したのだ。さらにデジタル高画素化でピントの厳密性が問われるようになったので、デジタル中判では適切にぐっと絞り込むのが必須になる。このため「がっつり絞れ」の状況は変わっていない。絞れば絞るほど解析現象の程度が大きくなり画像の鮮鋭度が失われる。フィルムでは拡大率の違いから中判では解析現象がライカ判ほど目立たない場合もあったが、デジタル化によって画像サイズは画素数によって決まるようになったので様相は一変している。解析現象をカバーする現像手法はあるが、これはライカ判等も同じなので、センサーサイズが大きくなりさえすればよいとは言い難い側面があるのだ。

さて、昨今はカメラのテストとしてチャートやチャートと立体的な被写体を含めて撮影し比較する検証サイトが多い。中判とライカ判との比較も多々見かける。このとき同感度のものを比較してもあまり意味がないのではないかと感じる。なぜならスタジオで光源を用い光量をコントロールしたりピーカンで撮影するのでなければ、中判は前述の理由から2段または3段以上絞り込まなくてはならいことから高感度設定にせざるを得ないケースが多い。中判ではがっしりした三脚を用いるべきだが、手持ちも容易なデジタル中判ではライカ判以下のように扱われるケースも想定すべきだ。となると、2段または3段以上の高感度設定で撮影することになったときを考え、ライカ判と比較して果たして高画質なのか問われるだろう。

やっかいな点はまだある。センサーが大型化することによる熱問題だ。とうぜん中判デジタルカメラやデジタルバッグを製造しているメーカーは対策済みではあるが、テザー撮影でライブビューが継続されるときどうしても冷却時間を間に挟まなければならない。ライカ判のテザーですら、冷却時間を挟むべきだ。熱によるノイズにさほど頓着しないのであればこれは大問題ではないが、画質に神経質になるならカメラやデジタルバッグがどの程度発熱し影響が出るかデータを取っておくべきだ。

デジタル中判はかつての中判と違う、と以前から書いてきた。ライカ判やAPS-Cですら高画素化によってかつての大判以上の能力を持っているのであって、中判フォーマットは単に高画質・大サイズへのプリントに必要なものではなくなった。フォーマットが違っても(条件を揃えたとき)画素数が同じなら鮮鋭度も画像サイズも同じなのだ。画素数が同じなら、画素ひとつのサイズが大きいほうが取り込める光量に余裕が生まれ階調性がよくなるとはいえ、ここまで能力を引き出すには撮影から現像まで細心の注意を払わなければならない。さらにライカ判やAPS-Cのデジタルカメラの性能向上は著しく、一昔前のデジタル中判より様々な点で高性能だ。一昔前のデジタル中判を中古で買う意味はほとんどないくらいである。

中判より小さなフォーマットのデジタルカメラと中判デジタルカメラを比較すると、これまで説明してきたように単純にフォーマットサイズだけで優劣を語りにくい現状がある。撮影はカメラやレンズの理論値だけで決まるものではない点も、この問題をややこしくする。すでに述べたように、中判デジタルを扱うなら撮影方法もまた中判にふさわしい体制を取りたい。それはかつての大判フィルムを扱う以上に、もしかしたら難しく神経質な側面があるかもしれない。そうやって撮影しても、小さなフォーマットのデジタルカメラで撮影したもののほうが品質のよい画像が得られる場合があり得るのだ。これは超微粒子フィルムを用いて精緻な現像を行っても、誰でも優れた画像が得られる訳ではなかったのと似ている。中判デジタルを否定する必要はないし、逆に小さなフォーマットを持ち上げる必要もまたない。何がどのように必要なのか、だけなのである。

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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