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世界は本物へのあこがれと、本物とあこがれが混ざり合う際の化学変化によって魅力的な新たな価値観を生み出してきた。アメリカの農場へ売り払われた黒人奴隷のなかに、白人社会から西欧の楽器を手に入れブルースやジャズを生み出した者がいた。しかしブルースやジャズは、長い間多数派の白人にとって取るに足らないものと無視されていた。この間にもブルースやジャズは発展して行く。やがて、ブルースやジャズにあこがれる白人が現れはじめる。聴くだけでは物足りなくなり自ら演奏し(差別的呼び名ではあるが)ヒルビリーと呼びれるジャンルが生まれ、ヒルビリーはロカビリーになりエルヴィス・プレスリーをはじめとするスターを生む。アメリカのみならず欧州にもロカビリーは波及し、黒人音楽とロカビリーから生じたビートルズのデビューがロカビリーの人気にとどめを刺す皮肉な事態にもなった。ビートルズ以降、ロカビリーから生まれた音楽のジャンルはロックと呼ばれるようになる。だが、このビートルズもまた本物である黒人音楽にあこがれ続け、同時期にデビューしたイギリスの他のバンドも同様だった。
ビートルズだけでなくヤードバーズ、ローリングストーンズ、クリームも他の白人バンドも本物の黒人音楽を真似することから始まり、どうしても黒人になりきれないことから偶然あるいは意識的に独自の音楽を奏でるようになった。これはなにも60年代から70年代初頭だけの話でなく、(アメリカのバンドだが)トーキングヘッズはリズム感やグルーヴ感を追求するようになると意識的にリズム隊に黒人ミュージシャンを導入しアフリカン・ポリリズムに向かう。しかしトーキングヘッズはここに行きすぎを覚え、再び白人メンバー中心の編成に戻る。自らのアイデンティティを考えざるを得なくなったのだろう。
数年前から国内でじわじわ流行っているイギリスのバンドThe Heavyを聴くと、黒人ボーカルと白人バックのバンド編成というかたちで本物の血を輸血した結果、彼ら以前のロックをリフレッシュしたのだと思わずにはいられない。私がThe Heavyを知ったのは例のCMでなく、たまたま観ていたYouTubeの動画のBGMからだった。メンバーどころでなくThe Heavyというバンド名すら知らなかったので、耳に残った曲を頼りにあちこち探してやっと正体にたどり着いた。ここまでして探したのは、代表曲でもある「How You Like Me Now」がとてもとても魅力的だったからだ。ソールやR&Bをベースにしているけどロックの文法で綴られた音楽で、懐かしい感じの曲調だけど古い曲でないのは明白だった。とても理屈っぽく惹かれたように思われるかもしれないけど、ギターのカッティングとボーカルとホーン、そしてダイナミックさにぶっ飛ばされたのだ。
はじめて「How You Like Me Now」を耳にしたときアメリカのバンドではないだろうなと感じた。というのも、広義のロックに関してアメリカのバンドは、あるいはアメリカのバンドのロックはイギリスのそれと比較して面白くない(確率が高い)からだ。もちろん例外は多いけれど、ロックはイギリスのほうが明らかに豊かだ。黒人音楽が芽生え発展したのがアメリカなのに。画期的なナニカがロックとして登場するのもイギリスからである。イギリスのバンドと、バンドの音楽のほうがキレキレでかっこいい。
「どうしてだろうか」とぼんやり思っていたのだが、The Heavyのアルバムを立て続けに聴いて理由がわかった。とうとうわかった。アメリカでは過去の歴史的経緯と文化的経緯によって、黒人音楽と白人音楽は断絶している。黒人にあこがれて白人がロカビリーを演奏した時代から現代までずっと。ヒルビリーにしろロカビリーにしろ、黒人が演奏する音楽を聴くことがタブーだったから白人が奏で歌う曲がヒットした。バンドや歌手たちの思いと別に、聴き手側の意識はこうしたものだった。またFM局にしても、黒人音楽専門局と白人音楽専門局に別れていたし、現代でもカテゴリーごと細分化されている。ジャズにもファンクにも白人の音楽家が多数いるし、白人のファンも多数いるけれどマクロな視点で見ればメジャーな分野ではない。スウィングジャズがゴージャスに流行しアメリカを代表する文化であったけれど、白人によるバンドが黒人音楽を漂白してサロンやホール向きにした音楽だ。これだって立派な、そして素敵な音楽なのだが、黒人のミュージシャンがゴリゴリとジャズシーンの前面に立ったのは第二次世界大戦以後だ。しかしこれらの音楽を輸入していたイギリスでは、もっとごった煮的な状況(で細分化されていない)だろうし、黒人と白人の階層よりずっと国民間の階層のほうが大きなテーマだろう。あこがれと本物と化学変化がシームレスで、いまもシームレスであるようだ。
ほんとThe Heavyを聴くと、コピーでなく本物の血を輸血することによるリフレッシュは強烈だ。これは黒人音楽の血だけでなく、ロックの血についても言えるのだった。またアメリカの音楽状況の悪口になってしまうけれど、ヒップホップからラップの流れの下流域であるヒットチャートを見るに、煮詰まったうえに画期的なものが音楽と無関係なところばかりになって堕落しきっているのにイライラさえ感じる。これも黒人やヒスパニックと白人の断絶が依然として文化の世界に横たわっていて、ともに蛸壺状態になっているせいだ。ロック側つまり白人側がヒップホップ等を導入するとしても、これまでに「こりゃ、すげえ」と思わされるものはなかった。The Heavyは黒人側も白人側も等しくお互いの領域に入り込んで化学変化を起こしていて、「こりゃ、すげえ」なのだ。
The Heavyで忘れてはならないのは、むんむん濃密な大衆性だ。むせかえるほどの大衆性だ。私は大衆性なんて無関係に突っ走るロック、ファンクが大好きだし、大衆性を振り切って売れなくなった電化マイルスの時代のマイルス・デイビスのジャズも好きだ。だけど大衆の一人であるから、こうしたあざといまでの大衆性の釣り針にも引っかかる。The Heavyは過去の大衆音楽の文法や音楽的符丁をちりばめた曲づくりをしている。ロカビリーからビートルズ、古きよきホンキートンクからビッグバンドジャズ、ブルース、ファンク、サーフロック的ななにか、スカ等々網羅的ですらある。こうした引き出しの多様さも、シームレスな黒人と白人文化の化学変化の一例だろう。過日スーパーで買ったネギ味噌煎餅のパッケージに「お米、ネギ、味噌の素材の持ち味をそのまま生かし」と惹句が印刷されていたのだが、まさにこんな感じだ。
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