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いずれアルコールも規制が厳しくなるだろうと、たばこへの圧力が幾何級数的に高まった時代に私はどこかに書いた。そういう時代がいよいよ現実になりつつあるわけで、いずれは現在ありふれたなにか、カフェインであるとか糖質であるとかが同様になるだろう。これは嗜好品の世界でのできごとであるけれど、嗜好品や食品だけでなく私たちの生活全般の隅々までに及ぶのは当然の成り行きである。なぜならたばこで一定の成果を得たからだ。たとえば石油から製造されるもの、娯楽に関するもの、思想に関するもの。
私はアルコール飲料を製造販売する会社から派生した広告制作会社の禄を食んでいたし、そういう製品の試飲と広告を生業にしていたけれど、たばこが規制されるならある程度規制されるのは仕方ないと当時から考えていた。毒といえば毒なのだし。たばこもアルコールも文化的背景があるし、いわゆるドラッグと比較したら肉体的にも社会的にも害はまあその少ないだろうと思うしで、即禁止で犯罪とするには難しいものがあった。だけど、毒といえば毒なのだ。
たばこへの規制が幾何級数的に高まって、これが反たばこ運動として成功した背景には使用者個人の意識の転換があったのは間違いないとしても、これ以上に「自分とは関係ないものはいくらでも叩いてもよい」とし、被害者であると声を挙げることで特権的地位が得られる現象が存在したのは否定できない。「自分とは関係ないものはいくらでも叩いてもよい」とする意識は、反たばこ運動の成功によってますます強力なもの普遍的なものになっただろうし。いまやたばこを遠ざけるのは、単に臭い嫌い健康の敵といった利害のうえのことだけでなく、意識の高いまっとうな人間の感覚に対する挑戦行為というか、悪から被害を受けるまっとうな人間の悲鳴でもある。
しかし毒はたばこに限ったものではない。だから新大陸発見以降の比較的あたらしい文化であったたばこから手がつけられ、これがアルコール飲料に矛先が向かうのはまあ当然なのであった。きっと私のように酒を何日も口にせずとも平気のヘイの字の人はアルコール規制の強化を「どうでもいいよ」と考えるだろうし、なかにはたばこ規制のときのように「関係ないからどんどん叩くわ」とする人も現れるだろう。あり得ない? いやいやたばこ産業があれだけ大きかったにもかかわらず焼け野原にされたのだから、あり得るのである。どっちにしても毒なのだし、医療費をバカ食いする元凶であるし、アルコールにいたっては家庭崩壊人生崩壊交通事故一気飲み被害といった社会悪でもあるしで、なんにもよいことなんてないじゃないかとなるだろう。
毒は遠ざけたほうがよいに決まっているが、「関係ないからどんどん叩くわ」的な風潮を許していると、カフェインや糖質にこれらが及んだとき健康で明るく清潔な世界はほんとツマラナイ、どこか宗教的な、修道会的なものに成り果てるにきまっている。
かつて池波正太郎は「たばこの煙が悪いというなら自動車の排ガスはどうなのか」という意味の発言をしているが、これは化石燃料を用いる自動車からハイブリッド、燃料電池車への移行となって現実のものになった。池波の言葉をたばこ好きの屁理屈と解釈するのは自由だが、池波のもとへわざわざ苦情を入れた人間の(ちょっと)偏執狂的態度は他人ごとながら辟易させられるものがある。小説のなかにたばこの描写がある、エッセイに愛煙家としての思いが綴られている、これらが許せないという偏狭さはちょっとね。
カフェインや糖質、あるいは別のフェーズで趣味や思想、性癖にことが及んだとき、やはり「関係ないからどんどん叩くわ」の人々が現れる。そして現在なにも問題視されていないか「大人ならわかるだろ」的なものにも、大清潔世界運動による粛清がはじまる。中世の異端審問、異端者処刑となんら変わらない様相でね。では、異端の対極にある「正当」とはなにかたばこへの規制、始まりつつアルコールへの規制強化から考えてみることをお勧めする。なんつーか西欧的な正しさって、中世から構造がなーんにも変わっていないのである。
Fumihiro Kato. © 2017 –
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