偽◯◯批判、反◯◯の看板はすぐ汚れる

日記です。

偽◯◯批判、反◯◯にはほとんどすべての世の中の現象やモノが代入可能で、特定の批判や反対運動について書こうとしているのではない(後々、特定の動きを取り上げるけどね)。ま、偽科学批判とか反原発とか目立つよね。こうした看板を掲げる、つまりプロフィールの先頭に書いたり、これらの専門家をうたう人がいる。批判や反対運動がすべからくダメなのでなく、批判や反対がもっぱらの人、あるいは誰かを小馬鹿にする人がダメなのである。

人として、何かに反論するのが看板になっている状態でダメなことに気づかないところに、知恵や教養の絶望的不足を感じる。「反」ではなく、自らが生み出し構築するなにかを提示しろよ、無理なら世間話だけしていろだ。こういった看板を掲げる団体や集団のひとりとして活動するならどうでもいいけどさ。

人間は多面的なもので、矛盾した存在で、自分自身のことさえ完全に把握しきれない存在だ。したがって何かに賛成したり反対したりする自分は、自分の中に存在する一部分でしかない。なのに、どうして自らの看板を偽◯◯批判、反◯◯にできるのだろうか。「だったら、八百屋、肉屋の看板も出せないことになる」なんて言う人がいそうでゾッとする。これらは職業だ。で、偽◯◯批判、反◯◯の看板を掲げる人はこれらを職業にしているの? である。職業にしても、生半可なことで看板を掲げるのは実に恥ずかしい。そうでしょ、野菜がいつもしおれていたり、肉の鮮度が悪い商売をしていて、八百屋や肉屋を名乗ったらどうなるか。あれは別人格がくっちゃべってるとかケツが青いこと言うなよ、である。

なんでこんなことを書き出したのかというと、底が浅いまま偽◯◯批判、反◯◯を自らの看板として掲げた人々は、必ずと言ってよいほど瞬く間に言論が劣化し、これを他山の石とすべきと思ったからだ。男性なら偽◯◯批判、反◯◯者はやがて誰かをあげつらい揶揄し小馬鹿にするようになり、末期は政治専門の偏った話ばかりするナニカになる。女性なら偽◯◯批判、反◯◯者はやがて誰かをあげつらい揶揄し小馬鹿にするようになり、末期はフェミニズム専門の偏った話ばかりするナニカになる。だいたい、これだけで説明がつく。年がら年中、政治専門の偏った話ばかり、フェミニズム専門の偏った話ばかりする人になるため偽◯◯批判、反◯◯をはじめたのだろうかという在り様だ。

どうして政治専門の偏った話ばかり、フェミニズム専門の偏った話ばかりするようになるかといえば、この手の人たちは例示した話題が相手からさも賢く見られるポイントと信じきっているからだ。いわゆる「意識が高い」だ。しかし、大概の人からしたらバカに見える。なぜバカに見えるかとなれば、圧倒的に底が浅い論調でのべつまくしがなり立てているからだ。底が浅いとは、知恵や教養が足りないことを言う。出発点からして底が浅いので恥ずかしげもなく偽◯◯批判、反◯◯を自らの看板にするくらいなので当然の帰結だ。

政治やフェミニズムの偏った話ばかりするようになる理由として、不満の表明に適していて、標的を想定しやすいからとも言える。ようするに、当初の偽◯◯批判、反◯◯からして自らの不満を発散する道具にすぎなかったのだ。不満を不満のまま発散するロックな姿勢、パンクな姿勢はお上品ではないので、偽◯◯批判、反◯◯のデコレーションをしただけだ。もしくはデコレーションせず不満をぶちまけると、自らの鬱屈や停滞の原因が白日のもとにさらされ恥ずかしいからだ。「ずっと平社員のままで給料が増えない」と叫んで「バカな上司と経営者!」と率直に言うのが恥ずかしいのだ。このほうがよっぽど好感をもてるのに。これくらい底が浅い偽◯◯批判、反◯◯なので、いずれ話題は枯渇し、独自の視点から情報を提示することもままならず、いつのまにか政治やフェミニズムの偏った話ばかりするようになり、看板は汚れ果てる。

私は偽科学批判が盛り上がりつつあったとき、かれこれ10年くらい以前だろうか、自分と知り合いが偽科学の信者によってあれこれされる経験をしていたのでどんどんやれの姿勢だった。だが現在、複雑な思いである。

偽科学批判に対して、理系有能思想に反発を覚えるという人たちが登場した。反発を覚える人々は文系特有のコンプレックスにとらわれていると言う人たちも当然現れた。なんだかなあ、なのだ。なのだけれど、両者の言いたいことは理解できる。前述の通り、ごくごく一部の偽科学批判者が偽科学に騙される人を小馬鹿にしたしね。またまともな偽科学批判の人も、コミュニケーションの仕方が上手かったかとなるとアレだ。まさか理系だからコミュニケーションは専門ではないなんて言わないよね。そもそも批判とはコミュニケーションで、コミュニケーション能力がないなら批判なんて看板は掲げるべきではない。

なにが気に障ったのか、である。「教え、導く」といった視点だろうな。実際のところ「どこがおかしいか教える」「正しい方向へ導く」のは不可欠だし、こういったものごとに反発するから文系特有のコンプレックスとか後ろ指さされるのだが、ちょっとふざけすぎたよね。しかも理系の方々特有の滑りかたというか、身内だけで受けるつまらないおふざけというか。私は別に反発は覚えないけど、ああこれはちょっと寒いなと思う。例として挙げるのは適切ではないし、この話とまったく関係ないけど、ほら何かというキムワイプを持ち出して笑いを取ろうとするアレが身内だけの、しかも客観的に見てもまるで面白くない滑りまくりのギャグであるような、である。研究室大爆笑みたいな。アカデミックな人というだけで、理系・文系を問わず反感を抱く層があるのは否定しないが。

ちょっとまじめに辛辣なことを書くけど、なぜ子供は残酷なのかである。子供が残酷なのは、圧倒的に人生経験が不足しているが故に他人が置かれた不条理な状況を想像できないからだ。大学で理系コースだったか、高専に進んだか、これらの道を歩まなかったか問わずひっくるめて理系として、この手の人のうち比較的アカデミックな層に人生経験が不足している者が少なからずいる。研究室の不条理や社会に出てからのあれこれでひどい思いを繰り返ししたと反論したい気持ちはわかるが、どうだかななのである。もし人生経験が豊富なら、あんな論調というかコミュニケーションにならなかったはずだ。「理系の専門知識だけで世の中のナニカが変えられるなんて考えてもいない」と言うかもしれない。これには「いやいや、理系の知識と専門性は大事だよ」と言いたい。しかし、「どこがおかしいか教える」「正しい方向へ導く」の過程で、不特定多数にそう感じさせたらダメなのだ。子供のような残酷さが垣間見えたらダメ。どんなに丁寧な言葉を使っても隠せなかったらダメ。そして残酷かどうかを決めるのはあなたではなく、教えられ導かれる側だということ。

これを文系特有のコンプレックスというのはたやすい。そうレッテルを貼れば、相手の口を封じるか、相手の発言を無効にできる。しかし、汚い手だ。気づいていないだけで理系・文系に対立軸を設けている人が多いから、知らずにあれこれ汚い手を使ってるケースもあるけれど。理系・文系、大卒、義務教育レベルの知識等々といった言葉、これだけで鬱屈した気持ちを抱く人がいる。そんなこともわからないのは、圧倒的に人生経験が不足しているが故に他人が置かれた不条理な状況を想像できていないのだ。私とあなたは学校で勉強ができるタイプだったかもしれない。そしてなんだかんだ言っても高等教育を受ける機会があったかもしれない。勉強ができない子は、なまけていたか、能力的に問題があったのだろう。学童のとき学んだはずのことを忘れているのはどうかしているのかもしれない。で、学校では勉強ができる子ができない子を揶揄するのはダメだと教えらたり暗黙の了解事項になっている。しかし体育で駆け足が遅い子、鉄棒ができない子、水泳が不得意な子に対しては教師が率先してバカにする。長じて、これら子供は様々な環境へ散り散りになる。成績がよかった子が感じた不条理、体育しか取り柄がなかった子の不条理、すべてに劣等感を抱かざるを得なかった子の不条理、貧しい家庭の子の不条理、金持ちの家の子の不条理がそのまま世の中をつくっている。どんな不条理でも、これを揶揄するのはガキの時代だけで終わりだ。人の優劣の話になってしまっては、ね。私はここで「知恵や教養がない」なんて書いたけど、これは自己の正当性ばかりを高く掲げている中身が空っぽの人のことだから、ガハハハ。

偽科学批判をしたことで偽科学を垂れ流している業者から猛烈に攻撃されたと口にする人がいる。ええ、そんなの当然じゃないの? である。執拗きわまる砲火にさらされるのが前提ではないの? 場合によっては身ぐるみ剥がされるよね? 予測済みでしょう。もっと弱っちい抵抗で終わると思ったのか、である。これひとつとっても、他人が置かれた不条理な状況を想像できていない。そして太古から現代にいたるまでの商人の精神性や行動原理を不勉強すぎる。で、あなたは水素水を信奉しているご近所の方、水素水を陳列しているスーパーに対して、いつもの「どこがおかしいか教える」「正しい方向へ導く」活動してますか、という。あの通りやっていたらいたで、やっていないならいないで、どうかと思う。大学生協や社食や総務部等の言いやすい相手に文句つけるのは別の話で。匿名だから、SNSだから批判できるというのはおかしい。ご近所の方と険悪な関係になりたくないから面と向かって批判しないって、どこに偽◯◯批判・反◯◯が信条とする正しさがあるのか。ほら、あの滑りまくりのギャグをまじえて導いてあげればよいではないか。ここにいたり偽科学批判だけの話でなくなる。隣人を教化し導けないのに、なぜ世の中の流れを変えられると思ったのかである。世の中なんて大きなことを言わず、あるひとつのモノゴトを変えられると思ったのか。もしどこかの誰かの不勉強や学識のなさやデマ体質を嗤うのが目的で看板を掲げているのだったら、実に暇人で、精神が腐りきっていると思う。ま、ここまで変な人はすくないからいろいろ何事も生半可なのだろう。ガキオトナはネットの拡声装置を使うな、安易に他人に関わるなである。

 

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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Profile

F.Hiro.K
加藤(文)文宏 / Fumihiro Bun Kato a.k.a Hiro.K
写真家・作家 / Photographer Author
・北海道北見市生まれ。
・大学卒業時までに詩集「無題あるいはサラバ」、同「Cadenza」発表(共に絶版、在庫なし。「Cafebza」別装丁私家版のみあり)。
・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。
・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他)
・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。
・不二家CI、サントリークォータリー企画・取材、Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告、武田薬品工業広告、他。アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材、MIT Museum 収蔵品撮影 他。
月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。
・長編小説「厨師流浪」で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」他、小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。
・獅子文六研究。
・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。
・各メディアにおけるスチル撮影。
・オリジナルプリントの製作、販売。
・JSAHP正会員
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