信用と名誉

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私たち人間はどうしたって一人だけでは生きていけない。俺は一人だ、と言ったところで誰かが育てた作物や家畜を誰かが売っているところで買って生きている。水道や電気のインフラも、誰かのおかげのうえで利用している。こうした誰かのおかげを手に入れるには、お金を用いなくてはならない。物々交換で、自分が生きていくのに必要なすべてのものごとを手に入れるのは不可能だ。なぜお金が人と人の間でものごとを交換する際に使われ、なぜ他の方法はとても限れた効力しかないのか、である。それはお金は色のついた(意味や意図のある)ものでなく、手にしたお金をそのまま他の交換に使えるからだ。お金の代わりに裸踊りを見せてもらえたとしても、使い道なんてまったくない。また、お金は信用が保証されているけれど、交換しようと持ちかけてきた人にはなんにも保証がないし信用も置けないからだ。つまり、どんなに親しい間柄であってもお金の信用度以上の信用はないのである。肩叩き券が通用するのは親子や親戚の子との間くらいだろう。ひどい話だって? なら、肩叩き券ならぬ私製の通貨で代金を支払うという人がいたとして、夫婦、親子、親戚、友人、知人どの範囲まで許してあげられるだろうか。

だが人と人はお金の交換だけで結びついている訳ではない。本来ならお金を支払ったり受け取ったりすべきことでも、この必要性に気づいていなかったり、それほどのことでもないと思ったり、一般常識や慣習としてお金のやりとりはふさわしくないとされていたり、などなどお金を間に介在させないものごとがいろいろある。お金ほど信用はないけれど、相手を信用しているがためになにかを許すという理由は大きい。なので信用を失うことは致命的とも言えよう。通貨への信用がなくなると大インフレが発生し通貨を受け取ってもらえなくなるが、人としての信用を失えば同じ状況になる。そんな人とは約束なんかしなくなるだろう。ましてや、取り引きや仕事など。信用とお金を軸にして、負のスパイラル真っ逆さまだ。

信用が地に落ちた人でも、スーパーマーケットは入店を拒まない。なぜならレジの会計が現金払いだからだ。しかしクレジットカードで支払おうとするとき、信用が地に落ちた人はスーパーマーケットのレジ係の人でなくカード会社から支払いを拒まれるかもしれない。法人が信用を落とせば、手形払いを拒まれる。いずれも金の切れ目は縁の切れ目。人としての信用を計るときも、お金で計測されるのだ。というか、お金以外ではどうにもならない。私は高利貸しのように冷酷なことを書いているだろうか。いや、これらは事実だ。事実から目を背けたいがために、ここでも「冷酷な発想だ」と感じるなら、たぶん近いうちにお金や信用にまつわる大問題に直面するはずである。情では、どうにもならないのだ。私がそう思うのでなく、世の中は情を斟酌してくれない。

実は私の行きつけだったよい蕎麦屋さんがあり、きれいな持ちビルで営業していたのだが、まあそういうことでビルもろとも所有権を奪われ廃業してしまった。私自身もいろいろ経験した。私が著作に関わる大きな契約ごとをする際に「これでどのくらいの収益が出るのか」「あなたはどれくらいの儲けを目論んでいるのか」「税務処理はどうなのか」といった意味の質問をしたら、「金でなく情熱」と顔を真っ赤にした相手から怒鳴られたことがある。ここまで読んでもらえたなら、信用、お金といった観点からこの発言は様々な問題を孕んでいるのが理解されるはずだ。世間話でのやりとりでなく、契約の際のやりとりで、どれだけおかしな主張であるからだ。創作物をつくり売ることについて契約するというのに、「情熱の問題」であるとごまかしているのだ。しかも空手形を切るように自分を信じろと。まあ信じてもよいが、客観的に信じられるだけの材料が提示されてなければならないし、そうだったとしても信じるか否か判断するのは私である。前述の「肩叩き券ならぬ私製の通貨で代金を支払うという人がいたとして、夫婦、親子、親戚、友人、知人どの範囲まで許してあげられる」だ。奥さんだったらいいけど赤の他人ではね、というのがあたりまえの感覚、信用への感覚だ。だけど、こんなのは珍しくもなんともないところに闇を感じる。信じていたのにと被害者は言うだろうが、相手は信じたほうが悪いとシラを切る。信用は対称形ではないのだ。

創作物にまつわるアレコレの話には、「情熱の問題」であると言い出す人が多い。ほんとお金の話、確たる話を避けようとして精神論を語る人が多い。たしかに情熱は必要だが、これと信用、これとお金は別問題だ。と言うと「情熱がなければよい創作物はつくれない」と反論されがちだ。なのだが、情熱はつくる側の問題であり、取り引きにおける公正さや、取り引きする相手の信用とは関係ないのである。仲介者は、往々にして結果に対して責任から逃れようとすると思ってよい。仲介者とは、直接お金を支払う人と受け取る人の間に挟まる人で、両者を取り持つことでマージンを得る人だ。ブローカーである。いずれにしろ「情熱の問題」であるという主張を飲んだなら、結果が振るわなかったとき「情熱がなかったあなたが悪い」とされる。すり替えである。みなさんも気をつけたほうがよいだろう。

信用してくれと言うは易しで、言うだけなら詐欺師も大いに口にする。大切なのは裏付けだ。相手の信用度は、自分の信用度と同じではなく非対称形だから裏付けが必要なのだ。その裏付けのうち、お金にきれいか汚いかは最重要ポイントであるはず。持ち金の多寡でなく、きれいか汚いか。お金にまつわる過去からの実績が、どうにも汚い、だらしない人は信用できないという以前に、その人自身が信用に対して無頓着なのだ。なぜならまで繰り返し書かなくてもよいだろう、信用とお金は表裏一体だからである。平然と約束をやぶる人で、お金にまつわるあれこれで人を裏切るから、信用に無頓着な人なのだ。

人間は一人では生きていけない。他人との取り引きにお金を用いる。お金は通貨として価値が保証されているけれど、取り引きや取り引きのための契約には人としての信用が重視される。契約には、相手が契約不履行のまま逃げるという結末もあるからだ。で、精神論と信用はまったく位相がことなるもので、信用は精神論や情でどうにかなるものではない。したがって、信用を損なう真似は何がなんでも避けなければならない。だいたい信用がおけない奴とされている人は、お金で自らの信用に味噌をつけている。人としての信用はお金と密接なのだから、お金周りはすっきりきれいにしなくてはならない。これが信用というものだ。名誉は、信用と同じではない。名誉は、信用のようにお金を媒介にせざるを得ないものと違う。「走れメロス」のメロスは信用を賭けたのでなく、名誉を賭けたのである。もっと具体的な話をするなら、名誉毀損で損害賠償が認められ、賠償額が満額支払われたとしても名誉そのものは回復しない。信用はお金で買える側面があるが、名誉はお金を積んでも買えないのである。もし信用がお金で買えるなら、どんどん買うべきだ。クレジットカードだって、きれいにお金を処理しつづけているともしものとき融通してもらえる金額が増え、さまざまなサービスが付加されたりする。どれだけお人好しに生きても、クレジットカードはあなたの信用度を高めたりしない。くどくど説明するまでもないが。

Fumihiro Kato.  © 2017 –

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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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