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1970年代末のパンク、ニューウェーブ隆盛期に登場した The Police のギタリスト、アンディー・サマーズはこのとき既に30代半ばで他のメンバーより一回りくらい年上だった。同世代のギタリストに King Crimson のロバート・フリップがいる。アンディーとフリップはイギリス南部出身で、アンディーが箱バンとして入っていたホテルのラウンジの仕事を、フリップたちと交代したという話がある。いつの話かと言えば、1960年代の半ば。フリップが King Crimson としてデビューしたのが1969年であるから、そのまた昔だ。芸歴が長くテクニックも成熟していたギタリストが、ロックの既成概念を「やっちまえ」精神で破壊したパンクムーブメントの只中に躍り出た訳で、このとき初めてアンディー・サマーズの名前と演奏を知った人が多かったはずだ。ちなみに The Police がファーストアルバムを発表した1978年、ロバート・フリップは King Crimsonを74年に完全解散させ80年代にクリムゾンを再生させる前のソロ活動期、バンド実験期だった。巨大な King Crimson で一仕事終えたフリップと、どこからか突如現れたような風情だったアンディー・サマーズだったのだ。
それまでアンディーは何をしていたか。ここは重要なので後で詳述するが、とにかく知る人ぞ知るギタリストであれど彼の存在がロック史の片隅も片隅に追いやられていたのは事実だ。The Police は、ドラマーのスチュワート・コープランドがスティングことゴードン・マシュー・トーマス・サムナーを発見したことから始まるバンドだ。スチュワートはプログレッシブロックバンド、カーヴド・エアー後期のドラマー、スティングはニューカッスル・ビッグ・バンドを経てラスト・イグジットを結成していた。スティングはジャズからジャズロックのバンドでベースとボーカルを担当していたのだ。新しいバンドの構想をスチュワートがスティングに持ちかけたところ、スティングがギターはアンディーでなければ話に乗らないと主張した。しかし、The Police はヘンリー(アンリ)・パドゥバーニをギタリストとしてスタートを切った。だがスティングの希望が強かったのだろう、デビュー前にギタリストをアンディに交代している。
スチュワートとスティングの活動歴を見てわかるように、二人はロックとジャズの要素を兼ね備えたバンドで、これらの音楽を演奏するだけのテクニックを持ったミュージシャンだ。アンディーもまた、スティングが彼でなければというくらいセンスと技術を持ったギタリストだったのだ。日本に The Police が初めて紹介されたとき、セックスピストルズを筆頭としたパンクムーブメントの一角として認識されていた。実際はニューウェーブ(白人によるレゲイを独自発展させたバンド)系とされるべきだったのだろうが、ミュージシャンの実像と出す音がタイムラグを経て到達した時代では今のように動画配信でバンドが演奏する様が瞬時に伝わるなんてことは夢また夢だったのだ。また、本国のレコード会社の思惑がパンクと同類項としてプロモーションしようというもので、こうした売り出し方も大きく影響している。パンクにしては歳をくった三人で、しかもテクニシャン揃いで、白人レゲイを独自発展させたバンドで、これまでにない表現とあっては伝えるのが難しい。流行り物に便乗させようとしたレコード会社の大人の都合はわからないでもない(肯定しないけれど、ね。でもあの時代には、あの時代なりの売り出し方があったのも事実。シニアバンドでテクニシャンなんて宣伝は逆効果だったろうし)。
こうしてパンクの新バンドという趣で日本に紹介された The Police だが、ラジオで曲が流れた瞬間、これは何か違うと中学1年生の私にもわかった。わかったけれど正体まで理解できなかった。とにかくパンクともニューウェーブとされていたものとも違う独自の音楽は衝撃的だった。だが、バンドの情報がほとんどなく、メンバーのパーソナリティーも伝わってこない前述のような時代だったのだ。私が The Police についてあれこれ知るのは彼らがバンドを解散する直前であり、さらに詳細を理解したのは1980年代の後半以降のことだった。ようするに、ここまでに書いてきたことをバンドの解散近くに知り、これから書くことをずっと後になってようやくわかったということだ。
で、だ。アンディーは The Police 参加の直前まで何をしていたかである。このとき彼はイギリスではなくアメリカはカリフォルニアにいた。ホテルの箱バンを経験したことをフリップとの関係として書いたが、このようなローカルバンドを経てロンドンに出たのちアニマルズに加入している。またセッションミュージシャンとしてニール・セダカそしてケヴィン・エアーズ共演した。だが、彼は煮詰まっていたらしい。音楽に煮詰まると同時に生活にも煮詰まり、アメリカ人の恋人とともに彼の地へ移住している。そしてミュージシャンとして活動するのでなく、音楽学校に入学して学生に戻った。このとき後々のクラシック的作品をつくる礎を学んだのは確実だが、実際のところは全てを放り投げて知らない土地へ遁走したとするのが正しそうだ。そして、ロックはこりごりと考えていた様子がテレキャスター(フェンダー社のエレキギター)との偶然の出会いとして彼の口から語られている。
音楽を体系的に学んだのち、アンディーは音楽学校でクラシックギターの先生をしていた。これだけでもロックはこりごりと思っていたのがわかる。あるとき学生の一人が「お金が底をついて苦しいのでギターを買ってくれないか」とアンディーに持ちかけた。このギターこそ、The Police で彼が弾いていた塗装が剥げ傷も多いテレキャスターだ。軽い気持ちでテレキャスターを買って家路に着いたのだが、どうにも傷だらけギターが気になってしかたない。手にとって弾き始めると、ロック的な何か、ミュージシャンだった自分の内心から何かが蘇り、腕が指がとまらなくった。翌朝まで弾き続けたらしい。そしてアンディーは恋人を捨て、アメリカを捨て、イギリスに舞い戻った。ここから The Police の歴史が始まる。
一台のエレクトリックギターとの出会いを巡るアンディーの逸話を、現在の私は胸の痛みが伴う共感として大切にしている。私は大学在学中に撮影アシスタンをはじめ、短い修行後に撮影仕事を請け負うようになった。この撮影仕事の関係もあり、在学したまま広告代理店に入社した。写真撮影で入社したつもりであったが、この会社の幹部に個室に呼び出され「広告代理店のカメラマンは、都合よく使われるだけだ。質の良い仕事は、外部に発注される。だから、写真撮影ができるということは伏せてディレクションにまわりなさい」と諭された。また「会社外で写真の仕事をするのは止めないし、このことを秘密にしておく」と言ってもらった。こうして私の二重構造の複雑な生活が始まり、30代に入ってから作家としてデビューしたことで三重生活にまでなった。しかし、二重、三重の生活しかも隠すものがある生活に私は疲労し、なにもかも嫌になり2000年代の一時期もう写真はやめようと機材の一部、主要な一部を売り払った。写真はもうこりごり、と。アンディーがアメリカに移住したときの気持ちも、経緯は違えど似たものではなかっただろうか。
私の The Police 熱が再燃したのは、再び写真の世界に戻ってからだった。これには、ここまでに書いたアンディーの人生が(比較するようなものでも対照するようなものでもないが)我がことと近しく感じられたからに他ならない。一台のテレキャスターがアンディーの人生に重要な意味を持つのと同様、一台のオリンパス4/3機によって私は背をぐっと前に押しやられた。機材を手に取ることで始まる人生、というものがあるのだ。戻って行く場所、というものがあるのだ。 The Police のファーストアルバム「Outlandos d’Amour」は自主制作かつ低予算で録音された。高度な演奏技術と知る人ぞ知る実績のあるメンバーのバンドだったが、パンクと一緒くたにして売ろうというレコード会社の思惑があったように、まさかここまで化けるとは彼ら以外は誰も思っていなかったのだ。「Outlandos d’Amour」に収録された初期のヒット曲で、彼らの代表曲のひとつ「Roxanne」はマスターテープレコーダーの回転が適正値になる前に録音が始まったためイントロ冒頭はピッチがやや低く、しかもスティングが誤ってキーボードに寄りかかったため不協和音と彼の笑い声が記録されている。これらはスターバンド The Police しか知らない人にとっては信じられないことだろう。私は The Police のようなスターではないが、こうして写真を撮り、写真を問うている状態は「Outlandos d’Amour」のレコーディングに臨む彼らと同じだと思っている。誰がなんと言おうとも。
Fumihiro Kato. © 2016 –
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