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昼食を某中華料理店で1年ぶりに食べたのだけれど、期待を裏切られただけでなくひどく失望させられた。以前はちゃんと私好みであり一般的評価でも中の上以上のものを出していたのに、砂糖をぶちこんだ台無しの味に変化していたのだ。出汁はしっかり取れているし、甘さ以外はちゃんと調理できているのだからもったいない。店の雰囲気から察するに、父親が先代から受け継いだ味を自らの新機軸を打ち出そうとした息子が改悪し、どうも父と息子の仲が破綻しているようだ。
こういった仲違いは料理店ではしょっちゅうあり、改悪か改善か別にして息子が父親と違う試みをしたくなる気持ちは痛いほどよくわかる。改良が吉と出るか凶と出るかは、改良者の定見というかセンスに結果が左右される。そして悪い結果が現れるのは改良からしばらく経った後で、気がつけば引き返しようのない段階に至っているのは恐ろしいことだ。私のように新機軸を好ましく思わない者がいても、客足がばたりと遠のく訳ではない。固定客の一部は店を見限るかもしれないが、そこそこ繁盛が続く。ところが新規客のリピート率が減ると同時に、「まずい」と口コミが広がり新規客そのものが倍々に減っていく。固定客の出入りを塩梅よく埋めあわせる新規客が減れば、いずれ店が廃れるのは当然の成り行きである。
改良者の定見というかセンスへの評価は、料理店に限らず時代性に左右される部分がある。故に時代を先取りしすぎたとか上手だけれど時代遅れという評価のされかたがある。いくら非凡な能力があっても改良が成功するとは限らないのである。では、無難な態度で過去を継承・継続していればよいのか。いやいや、そういうものではないだろう。時代性など外因的な要因に晒され変化を求められるだけなく、本人の内因からして新機軸を試みたくなる。だから先の例で言えば料理の味に対してまったく賛同できないが、新たな試みをしたくなる気持ちだけは理解できると書いたのだ。
写真や他の創作は、新機軸について料理店ほどシビアではない。むしろ常連や初見の客をどんびきさせるくらいでないと、自らのスタイルを変身させられないケースが多々ある。なのだが、捨てるものと新たに加味したものを創作したあとに考える機会を持つべきなのではないだろうか。創作は突発的なひらめきや発見が出発点になる場合が多い。このとき勢いを矯めてしまっては元も子もない。とにかく手を動かしつくる。若い人は、どんどん進むべきだろう。考えるなんて、もっともっと後でよいように思う。しかし、体力が落ち、寿命をすり減らしている者(つまり私のようにだ)は、より戦略的にやらないと残された時間が足りない。試行錯誤の時間が足りない。もういちど甘ったるくなった中華料理店の例を挙げれば、味を見限られて閉店せざるをえなくったとき気づいても手遅れ。創作の場合、閉店はないが寿命が尽きているという具合だ。
Fumihiro Kato. © 2016 –
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