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昨年の秋に「海景」と題した写真を撮影したのだけれど、撮影したいが「ならばどうする」の状態が続き次作への一歩が踏み出せずにいた。この間、撮影地を探したり、どうしようああしようと考えたり、あるいは他のものごとに関心が移ったりだった。いつもなら「ならばどうする」は、撮影しながら発見していくのだが、どうしたわけか手が止まったままどうしても動かせなかったのだ。
海を撮影したいと思う気持ちの根底に、九歳までの三年間ほどを過ごした新潟市小針で得た強烈な体験がある。新潟は海岸から標高差が乏しいまま平地が連なり、陸のはじまりからしばらく砂地だ。この砂っぽい陸地は海抜0mどころかマイナスの場所も存在している。私はゆるやかで長い坂を昇って、自転車で海に通ったものだ。だらだらと微妙な勾配をのぼりきったところに防砂林があった。海と陸の境界は波打ち際なのだろうが、当時の私は防砂林の内と外に世界が区切られていると感じていた。海は異界だったのだ。
防砂林の中から砂丘様の浜に、錆びて朽ちた大きな機械があった。これらの幾つかは、かつて(といってもいつの時代のものかわからないが)石油の掘削や汲み上げに使われたものであった。どれくらい知られているか判然としないが新潟は産油県である。こう言えば、どのような機械か見当をつけてもらえるのではないかと思う。防砂林、砂丘、錆びた機械、ハマヒルガオ、真一文字に連なる波打ち際、日本海、水平線とこれらが織りなす風景は巨大で、細部にいくつもの異なるディディールが存在した。この果てを知らない巨大な風景こそ、私の視覚にとっての原体験である。あまりに強烈な印象であったから、いまだに幼少期三年間に得た体験を反芻しつつ写真を撮影したり文章を書いている。
では幸せな記憶かと問われたら、否と答える。広大すぎる砂丘と海と空は恐怖でもあり、同時に居心地のよさもあるという不可思議な記憶となって私の心の中にある。「海景」と題した写真を撮影したいが「ならばどうする」の答えが、ここに書いた恐怖と居心地のよさだとやっと気付いた。したがって以前の「海景 A」と「海景 B」とやや趣がことなる写真に変じたのは当然である。その「海景 C」以降は、ギャラリーサイトに逐次掲載して行く。





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