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この一文のタイトルは、タイプライターが発明されてシェークスピア以上の戯曲が量産されるようになったか、という問いと同じだ。
このご時世は写真誕生からかなり時間が経過し、方法論が相当数出尽くしているので画期的な写真技法はネタが尽きかけている。何かが写っていたら大喜びなんて時代ではない。画期的な技法は、それそのものが意味を持つのでソラリゼーションなどの手法にしろスナップなどの撮影ジャンルにしろ登場当時は何をやっても価値があったが、いまどきこれらを振りかざしても「それで?」だ。「で、どうするの?」と。
解像していれば写真としての価値が高いなら、これほど簡単なものはない。解像度だけでなく、全天全周カメラを使えば価値があるのか、超広角レンズを使えば価値があるのか、となる。ほら、それそのものだけではまったく価値がない。では、これらが有効に活用され新たな意義を切り開いたかとなると甚だ怪しい。たぶん頭がよくセンスもある人が、画期的なナニカを我々の前に提示することになるだろうが、現段階は幼児が新しいおもちゃに大興奮しているのと同程度だろう。
高画素機や高解像度のレンズが続々と発売されている今、これらは機材を買った人なら誰でも手にできる。表現の第一段階は道具を手にいれることだけれど、道具がありさえすれば誰にでも実現できるものは表現として弱い。極論にならないよう気をつけて発言するが、高解像度にしろ、全天全周にしろ、登場と同時に当たり前になり陳腐化がはじまっている。実に、腐るのが早かった。また、写真のデジタル化によって機材の小型化、色表現の進化が盛り上がるだろうと想像したけれど、いまのところ大した動きはない。というか、これらに挑戦しても旧態然としたフィルム以来の価値観に縛られている人々は振り向きもしないといった状態だ。撮影する側も、これらを世に広める側も、鑑賞する側もだ。
そうこうしているうちにカメラが売れない時代になったとされる。これはスマホによってカメラ市場が壊滅的打撃を受けたのではなく、必要以上の画質を持った写真をどこの誰もが簡単に撮影できるようになり、写真そのものへの期待感が著しく低下したからカメラが売れないのだ。こんな時代にいまだに営業写真館が繁盛するのは着付け、メイク、背景(セット)といった道具立てと、営業写真館的技能によって撮影された写真に需要があるからである。うーん、演出というか。この演出も、いかにも写真を撮りましたといったスタイルは古くなり、いまどきは日常の延長にありつつ日常ではないカットが求められている。こうした営業写真館が担っている需要も、たぶん将来的にはスタジオ内に複数設置されたカメラで動画的に撮影されたデータから好都合なカットを切り出す装置に取って代わられるだろう。このような装置を導入するのは営業写真館だとしても。
これまで写真はテクノロジーの進歩と同じ歩調で画期的なものを生み出して続けてきた。ゆえに機材偏重主義の人々を生み出し、幻想によって新型カメラやレンズが売れていたとも言えそうだ。で、タイトルに戻る。解像度が向上しても写真はなーんにも変わらなかった。
Fumihiro Kato. © 2016 –
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