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べつに「宗教」は否定しませんよ。私も南無阿弥陀仏と地蔵様につぶやきますしね。
しかし、公開公表されるあらゆる表現物のうちゾーニングで解決されるものごとに対して嘴をつっこみ、この表現は規制されるべきと顔を真っ赤にしている人たちが、私には中世の魔女狩りを扇動するヒステリーに取り憑かれた人々同様に見えてならないのですわ。で、「この表現は規制されるべき」とやり玉に挙げられるのは多くの場合、彼ら彼女らの知らない世界、彼ら彼女らが嫌いな世界、彼ら彼女らが嫉妬する世界、彼ら彼女らが卑屈にならざるを得ない世界の表現物だなと透けて見えるのがなんともはやで。
この手の人々の不思議さは、自らの存在つまり我が正義が社会の普遍的価値や社会の理想と一致していると信じて疑わない点だ。「正義」、んーちょっと恥ずかしい物言いで、自ら正義の味方と称する胡散臭さまたは知恵の足りなさにつける薬はないという。いずれにしろ、正義が相対的なものである故、正義対正義による戦争が繰り返されている歴史さえ知らない時点で程度のほどのお里が知れるわけです。正義なんてものは自ら名乗るのではなく、誰かがそっと誰か何かにつぶやく程度のものでいいのです。そして、明日には「勘違いだった」と赤面する程度のものです。正義の自負ほど世話がやけるものはありません。
で、この人たちは「私、それ嫌い」「社会から抹殺すべき」と他者の表現に向けた矛先が、いつか自らに向けられる可能性さえ想像できないらしい。ま、矛先が向けられたときは、「○○政権はファシズム」「言論弾圧」なんて言い出しそうでこれまた阿呆らしい。様々な文化、発言、創作物のうち「自分としては受け入れられない」「なんとなく、これは嫌だ」とするものがあって当然なのだけれど、これらが存在することは同時に自らがよしとするものが存在できている理由でもあるわけです。正義の表現物なんて発想は、ナチスの退廃美術追放とか文化大革命時の文物破壊の原動力じゃないですか。ほら! 「○○政権はファシズム」「言論弾圧」って言いそうな人こそ、コジらしてるでしょ。幼稚っていうか教養がないというか。世界の中のど田舎思考というか。アク抜けないというか。紅衛兵なみのガキというか。白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき って 知ってます? というか。
ゾーニングつまり棲みわけ、または公開場所の区分が理解できない例として他人の国、異なる文化圏にわざわざ出向いてテロを起こす輩が挙げられ、この迷惑な人たちと大してかわらないのです。
Fumihiro Kato. © 2016 –
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