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写真は真実を写し取れるとどれだけの人がいま信じているだろう。たぶん100年前の人々は写真は真実を写すと思っていただろうし、20世紀の後半も多かれ少なかれ写真の「真」の部分に期待していた人が多いだろう。真実を写すどころか更に魂を抜き取られると考えたのが19世紀の人々だ。意識的に撮影を行なっている人なら、写真とは様々な要素を主観で選択しながら完成に至るものであるのを知っている。どの向きで、どの光で、どの範囲を、どのような手法で撮影するかによって、写し取られたものの意味がだいぶ変わるのを理解するのが「撮影技術」の大半を占めている。イデオロギーとまで言わないが、意図と目的に叶う撮影ができる人が「写真がうまい人」である。つまり撮影者は写真が真実とは限らないのを知っているのである。
写真のデジタル化によって撮影の難易度が低くなり、スマートフォンにまで高度なカメラが搭載されるようになりSNSへのアップロードも簡単になった。こうなるとフィルムの時代には年に数回しかシャッターを切らなかった人が頻繁に写真を撮るようになり、スマートフォンから人生がスタートした人ならカメラであること写真であることの意味すら過去の人とは違い毎日のように写真を撮影しているだろう。どこまではっきり認識できているかわからないが、写真は撮影者の主観次第で意味がどうにでも変わると多くの人が感じているのではないだろうか。
女性を中心にセルフィーに美肌効果やデフォルメを加えて、加工後の姿を自写像とするのは写真が真実ではないことを自覚して、真実ではない自分を自分であるとする行為だ。インスタ映えという言葉には、フォトジェニックな場所やものの意味だけでなく、いかに切り取るか画角内を整理するか巧妙に実現するという意味が含まれている。むしろ被写体そのものの見栄えより、いかに撮影するかに大きく比重がかかっているかもしれない。今年の神戸ルミナリエではインスタ映えのため路上に水を大量に撒いてイルミネーションの反射を撮影する人が現れ追悼の意味に反しているとして批判された。やってよいことか悪いことか別として、これは真実を撮影するのではなく主観を重視して事実と違う状態をつくっていると言える。「インスタ映え」をバカにする人もいるけれど、よっぽど写真の本質が理解されているとみるほうが適切だろう。ギターをうまく弾く人がすくないからギタリストは商売になっているが、全人口のうちほとんどの人がギターを弾きこなすようになればギタリストは何をどう演奏すべきか根底から変えなくてはならなくなる。インスタ映えするため写真にほどこす技法やギミックは、これまで写真家が撮影時に施してきた演出と本質は何ら変わらない。全人口のほとんどがギタリストになった世界の喩えを妄想と笑えない状況だ。現代の写真をめぐる事情は、ここまで来ているのだ。
この結果、「判断はこちらがするからそのままを見せてくれ」という人が増えている。一枚物の写真は既にフレーミングに主観が反映されているから360度全天写真や動画のほうが有益であるとする立場だ。観光地についてのインフォメーションを共有するネットメディアで360度全天写真写真のほうが好まれているのは、こうした理由によるものである。典型的な例が地図にペグマンを落として周囲を移動したり見回せるグーグルMapのストリートビューだ。グーグルストリートビューには一切の主観を廃した撮影したままの情報が掲載されている。だから「有益」なのだ。
また以前ならマスメディアによって買い上げられてマスメディアの主観で構成された写真が時代を動かしたが、こうしたイデオロギーに基づき恣意性を背景にした写真の見せ方の底が人々にバレたのがインターネットとSNS以後の時代だ。「あなたたちの特定のイデオロギーで教化されたくない」ので「判断はこちらがするからそのままを見せてくれ」なのだ。そして「SNSにあがっている写真」のほうがよっぽどよいではないか、という人たちが現れた。なかには「SNSにあがっている写真だから真実」であると未だに思い込んでいる層もあるが、マスメディアに対する疑いと同じ目を向けてSNSに貼り付けられた写真に対して「判断はこちらがする」という人々が現れている。
このような時代に、どのような写真を撮影すべきか、どのように見せるか写真家は問われている。
写真館が衰退した事実を、写真を撮影する現代人は振り返るべきだろう。写真館の写真が写真界の花形だった時代があり、人々が人生のポイントごとに撮影を依頼する場所であったし、写真館で撮影した著名人の写真はとても重要な意味を持っていた。しかし現代の写真館はフィクション込みで七五三写真や結婚写真など限られた需要を請け負い撮影する業態になっている。なかには写真館で撮影してもらった経験がない人もいる。現代では完璧な舞台設定と衣装でフィクション込みの思い出を撮影するのが写真館で、なかには自然光スタジオで一般家屋を模したフィクションを用意している写真館まであり、作り込みが完璧でなくてもよいなら人々は自分のスマートフォンで記念写真を撮影している。なぜそうするのかと言えば、つくりこんだ世界に魅力を感じられなかったり、好みのアプリでフィクションを加えたほうが思い通りの仕上がりになるほうがよく、しかも撮影料を支払う必要がないからだ。人々がお金を払ってまで得たいものを写真館が提供できなくなっていて、自分で撮影して記録したほうがよいと判断されている。これは写真館をめぐる事情に限った話ではない。
これからは「判断はこちらがする」に応えるのも道だろうし、位相をまったく変えて事実について「判断はこちらがする」と人々が思いもしない分野を開拓するのも道だ。事実についての判断が不要な写真は絵画表現と同じもので、被写体は素材または触媒であってそれそのものを評価する必要がない表現だ。ある時代まで絵画は事実の記録に使われたが、セザンヌの絵や北斎の版画を観て「判断はこちらがするからそのままを見せてくれ」と言いだす人はほぼいない。現実とは違うじゃないかと言いだす人がいたとしたら、間違いなく時代遅れどころか精神状態を疑われるだろう。へたな観光情報誌よりグーグルストリートビューが信頼されているのだから、事実の記録に徹するか、小馬鹿にされているインスタ映えを学習するか、絵画表現と同じ立場を取るかするのがこれからの写真であって、いわゆるカレンダー写真やマルベル堂のブロマイドから二、三歩前進したポートレイトを再生産している人々はあまりに時代遅れで意味のないことをしていると言える。
さて、インスタ映えと絵画の表現の違いについてだ。セザンヌの絵や北斎の版画はスマートフォンアプリのように現実を美化しているだろうか。画家は現実を美化しているのではなく、美の要素を抽出したり、美の要素に触発されて絵画を描いている。美化とは、その時代の通俗的な好みに合わせることを指すし、美化した状態をさも現実であるように提示する。これがインスタ映えだ。通俗的な好みに合わせないのだから、美術作品は描かれた時代にはなかなか受け入れられない。受け入れられたなら才能とタイミングが稀に一致しているのだ。写真館はその時代の通俗的な好みを的確に反映させるため「営業写真館」と呼ばれる。もし写真館の写真がアバンギャルドだったり、撮影者の感覚を押し出したものだったら、特定の狭い範囲では評価されるだろうが商売になるほど客はやってこないだろう。こうしたギリギリの線を死守して完璧なフィクションを撮影するのが写真館のプロだ。この延長線上に評判になるポートレイトのプロがいる。どのように撮影するか人それぞれであるけれど、写真に真実を期待する人は確実に減っているのは間違いないし、これからこうした人が増える可能性はまったくない。「判断はこちらがするからそのままを見せてくれ」という人々に対して、どう向き合うか切実な問題として考えなくてはならないのだ。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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