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報道や記録写真の類は別だけど、見たまま、撮影した結果のままの色が気に入らないなら、自分で色を決める操作を[してもよい]ではなく、色は自分で決めなくてはならないだろう。絵を描くとき、色彩表現が伴うものなら誰だって色について考えるし、考えた結果を反映させる。小学校の図画工作の時間に水彩絵の具をパレットの上で混色していたのに、写真になるとカメラの機能やメーカーがプリセットを選択できるようにしているものを後生大事に使うとか、思考停止以外の何ものでもない。
例えば青っぽい花にも赤系の色素、黄色系の色素などが含まれているとか、青と認識されるけれど実は緑の成分が大半を占めているとか日常茶飯事だ。葉や茎は「緑色」と思い込んでいるようでは駄目だろう。葉や茎は「緑色」に見えるけれど、実は黄色系の波長の反射が色味を決定していて、色を支配している。つまり人着に頼らなくも、これら潜在している色を呼び出したり、色相を変えてやることで求めている色が表現できる。人着だって奥が深いし、これもまた[してもよい]ではなく、必要ならやるべきだろう。デジタル化の恩恵を自ら捨てて、意固地にならない方がよいに決まってる。
Fumihiro Kato. © 2018 –
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