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以下の写真に思いつくだけタイトルをつけてもらいたい。
思いつくだけタイトルがつけられるのは、添えられる言葉次第で写真の意味がいかようにも変わるからだ。「晩秋・東北」「梅雨空の七里ヶ浜」「別れ、1990」「海を越えたら」「さよなら日本」、季節と場所にとどまらず時代さえ操作できる。「この写真は1986年、冬の九十九里での撮影だ」と種明かしをしても、「また嘘をついているのでは?」と言われそうだ。これが写真というものだ。
アンリ・カルティエ=ブレッソンはアメリカ合衆国の刑務所を取材し作品を発表したことがある。そのなかの印象的な一枚、鉄格子から痩せた足だけが突き出ているカットが、ホロコーストを糾弾する記念切手として無断で発売された。タイトルだけで写真の意味がまるで違うものになる、これまた一例である。
タイトルをつけず写真だけ提示して意味を読み取ってもらいたいとする撮影者がいる。このような姿勢の人がいても何も問題はない。言葉でどのようにも意味が変わる写真の存在に懐疑的であるか、言葉そのものに懐疑的なのだろう。なのだが、一連の写真に一貫したスタイルや手法の統一があるなら、彼(彼女)の意識下にコンセプトがあるのは間違いない。コンセプトとは「言葉」そのものである。
私は写真にシリーズ名やタイトルをつけている。コンセプト先行で写真を撮影する場合もあれば、撮影された写真の中にナニカをみつけコンセプトを抽出し連作がはじまるむ場合もある。脳内の曖昧としたものを放置できず、言語化しなければ気が済まない性格によるものだろう。もしコンセプトの誤りに気づけば連作は中止し、発展性があると思えば何年間も撮影を続ける。
作家名そのものが写真のタイトル相応のものになる場合もある。○○(氏名)展と看板を出すだけで、展示に期待すべき具体的なナニカを伝えられるなら、この人の氏名は写真のタイトル同様ではないか。演歌歌手のディナーショウの広告を見て、ヘビーメタルのシャウトを期待する人する人はいないだろうし、大概の人はヒットした代表曲が再演されるのだろうと思うはずだ。そういうことだ。
写真の表現手法のひとつに組写真がある。コンセプトがありテーマが絞られたうえで撮影された写真を、数枚の組にして発表する形式だ。
組写真「あの日の、前日」──
「あの日」から連想するものは人それぞれだろうが、これらの写真はてんでばらばらの日に撮影されたものだ。前日でもなんでもない。タイトルから写真の意味が誘導されるのは前述したが、このケースでは更に写真それぞれをつなぐストーリーまで捏造された。もしここに、タイトル、リード、本文が添えられたらどうだろう。ますます「あの日」が具体化し、捏造または創作の度合いが高まる。プロパガンダ写真にしばしば用いられる手法である。だがネガティブな側面だけ理解し眉をひそめるのでなく、創作活動に有意義なかたちで積極的に利用したい。映画は台本の進行通りに撮影しないうえに物語がフィクションであるケースがほとんどだ。要は映画的真実、映画のうえでの整合性と説得力があればよいのである。これは写真的真実にも言える。なお例示した組写真はあくまで作例であり、これらは別のタイトルで構成を考えている真っ最中である。
ここまでの説明で「編集」しだいで写真の意味が変わり、「編集」しだいで写真は意味を失うと理解していただけたと思う。
次にトリミングまたは構図について考える。
2.人物を消し去った。(1.)のコンマ数秒前の状況。シャッターチャンスの例としたい。
AからB、Cは、人物中心、ハト中心、人物は要素として主張しているが手前のコンクリートの建造物の比率が高まったもの、である。情報の中心部が何か、情報量の寡多、といった違いが存在する。面白いかどうか別にして、1〜5は別物の写真である。トリミング=デザイン処理で写真は変わるのだ。
Fumihiro Kato. © 2016 –
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