workshop9. 写真的真実というもの

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私は「写真的真実」という言葉と、この言葉が意味するものを大切にしたいと考えている。ただ一般的な語彙ではないため説明が必要だろう。

写真なのだから記録されるものは真実だと言い切るのは早合点だ。
広角レンズのパースの誇張と望遠レンズのパースの圧縮は、わかりやすい真実と異なる写真に顕著な描写特性だ。フレアやゴーストもそうだ。ボケもまた人間が視覚で感知できるものと違う、写真ならではの描写で真実と言い難いものがある。
長時間露光も、偏光フィルターの使用も、モノクロ化も真実と異なる結果を生む。
コントラストやガンマ値を変えることで真実とは違う様相が描画されるのもそうだ。
色については真実そのまま描写させるのはとてつもなく困難な作業になる。したがってほとんどの写真は実際の世界の色の様相と異なっている。
ここまでは主に機材や撮影技法に関するものだが、演出を加えた撮影もまた真実とは違うものになる。
演出には被写体となる人に対してのディレクションから、メークやコスチューム、ロケーション等に至るものまでが含まれる。なぜそんな場所で、そんな時刻に、美女が一人きりで遠いところを見つめているのか。あり得ないもの、そうそう現実世界では見つからない状況をつくっているのだから真実ではない。

いくつか例を挙げたように写真だからといって真実が記録できる訳ではない。「写真」という単語から真実を写しとっていると思い込んでいると、「写真的真実」についてもわからないままだろう。

では、わかりやすいものとして「演出」について考える。
喜怒哀楽の表情を演出したとき、嘘っぽいと感じられたらここに「写真的真実」はない。実際に被写体が喜怒哀楽の感情に至るところまで追い詰められていないから演出をするのであり、事実があるとすればあくまでも「演出」が存在したという真実だ。だが被写体の本心は別として画像として喜怒哀楽のいずれかの感情に揺さぶられているように記録できれば「写真的真実」は達成され、鑑賞者の心に何らかの作用を与える。実際に被写体が心から笑っているか怒っているかはあまり関係ないのだ。
いや鑑賞者は被写体の本当の気持ちを知る術がない。だから画像として記録したものの中で「写真的真実」が成立していればよいのだ。映画を考えてみれば、脚本と監督による指示で役者は演技をし、脚本、監督の指示、演技に真実みがあるからリアルな感情表現になり、ストーリーが現実離れしていても観客は納得する。ここには「映画的真実」があると言える。もし、映画が嘘っぽく感じられたり、熱中して鑑賞できないつくりであったなら「映画的真実」が獲得できていないのだ。

土門拳は「絶対非演出の絶対スナップ」をリアリズムだとした。
したがって被写体に注文をつけない代わり、いつまでもシャッターを押さず部屋に居座っている土門に被写体が怒りを爆発させた瞬間を撮影するなどした。たしかにこれはリアルだろうが、あまりに単純すぎる極論だと感じる。
一方で木村伊兵衛はやはり特別な注文を被写体につけないのだが、その人の持ち味が浮かび出た瞬間を逃さずシャッターを押し、撮影された人でさえ自分の表情や容貌とは思えない美点を記録した。これは一瞬の偶然の作用がもたらした記録であり、かならずしも喜怒哀楽のいずれかの気持ちに被写体が揺り動かされていないのだが、鑑賞者は写真からリアルな人間性や感情を読み取ることになる。これが「写真的真実」だ。
大家の名を挙げたので、植田正治の写真を考えてみる。
一時期、土門らの主張に嫌々ながら背を押されスナップを試みているが、植田正治と言えば砂丘シリーズだ。どれもが演出前提であり、非現実的世界が記録されているが嘘っぽさ、写真としての破綻が一切ないから世界的にUeda-Choとして彼以外には撮影できない写真とされ評価が高い。非現実的でシュールでさえあるのだが、リアルさがあり嘘臭さや破綻がないのは「写真的真実」が確固たるものとして存在しているからだ。

次はディティール(質感)について考える。
私たちが常識的に知っているモノなら、撮影されて写真になったものを見ても「リアルだ」「リアルでない」と感じることができる。ところが料理写真は、そのまま料理を撮影しても「リアルでおいしそう」な画像になりにくい。焼き鳥のタレのツヤ感、コーヒーの深みのある色などが再現できない場合がある。このようなとき食用油を塗ってツヤ感を出したり、コーヒーの表面に浮く油分を嫌い別の液体を使用するのはよくあることだ。
だが画像として見たとき「写真的真実」として破綻なく記録されているならこれで何も問題がないどころか、「まずそう」な料理そのものの写真より真実味があると言える。

テキスタイルの素材感もまたそうだ。
デニム生地のざらっと乾いた印象を表現しようとする際に、ライティングから現像まで考慮しないとただの布にしか見えないものになり、かろうじてジーンズパンツやジャンパーの形状を頼りにデニムだなとわかる程度の描写にしかならない。やや過剰な表現にしないとデニムのデニムらしさ、肌触りから重さ着心地まで表現できない。では、これが真実そのものかというと、そのものではなく「写真的真実」として成立するものだ。
カタログ撮影でどれもこれも同じライティングで流れ作業のように何百という衣服を撮影し、時間的余裕がないためやはり流れ作業で現像したり撮って出しをすると生地の素材感がない色と形だけは正確なものにならざるを得ない。コンシューマーはカタログを見る際に「ジーンズ」のページだとわかった上で、サイズと色などだけを頼りに商品を選択するため許されているだけだ。

ためしに日本のファッションブランドと欧米のブランドの店頭に掲出されている写真を見比べてもらいたい。
例外があるとしても、日本のブランドはモデルあるいはタレントの知名度と雰囲気だけで何かを伝えようとしがちだが、欧米のブランドは有名無名を問わずモデルとなる人の在り方と同時に服の素材感を明確に描写しようとする傾向がある。もちろん「写真的真実」としてだ。
これはけっこう大変な作業であり、人間らしさ、モデルの持ち味を生かし、同時にテキスタイルの素材感や服としてのリアリティもまた描写するのだから、撮影から現像まで流れ作業でできるものではない。

ここまでは心理的に人間が脳内補完の上、記憶しているものを再現する例を挙げてきたが、その逆の「写真的真実」もある。

どれほどボケたりブレたりアレたりしていても、説得力があるなら写真として破綻していないどころか「写真的真実」があると言える。このように記憶や人間の視覚特性からかけ離れたものでも、惹きつけられるものがあるなら写真として成功と言える。
たとえばノイズを消すことにばかりに神経を使う人がいてノイズが少しでもあるとダメだと言いがちだが、ノイズを消すのはなぜかから問い直し、それがどれだけ画像の重要な要素か検討したほうがよいだろう。もちろんノイズがないほうが「写真的真実」が獲得される例はある。だがノイズが乗っているくらいのほうが「写真的真実」がリアルな場合もあるのだ。

 
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