workshop24. 基本を熟知したうえでカスタマイズする

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基本を熟知したうえでカスタマイズする
── 成功率などと口にすることの欺瞞。失敗に対して「成功率が」と口が裂けても言ってはならない。その理由とは。

1.基本とはなにか

基本とは「おしきせ」ではなく無数の人が経験や実験のうえで導き出した最大公約数的なほぼまちがいなく「平均的結果」を導き出す手法のことだ。基本に含まれる一部を自らの経験や作品鑑賞等々から直感的に導き出せる人もいれば、これらができない人もいる。直感的に導き出せる人であっても、必要最低限の基本が身についていないなら「平均的結果」を導き出す手法をすべて独自に確立するのは不可能だろう。

基本ができていない、基本を知るのを嫌う、基本を身につける過程で諦めるといった人は、「平均的結果」を導き出せない。しかしまた、基本だけにとどまるなら「平均的結果」しか残せない。Aという基本が存在するとして、Aが発見された当時は画期的なもので新機軸だったはずだが、これらが基本に吸収集約された段階でAは凡庸な表現手法と化している。このため、基本を知ったあとは自らが人柱になりつつ新たな基本を構築しなければならないだろう。失敗を自らのセオリーにフィードバッグする段階に進むのだ。

失敗をセオリーにフィードバッグしてきたのは著名な人々だけではない。前述のように無名な人々を含む無数の人が経験や実験を行い、これらを公開してきたので基本が知れ渡り確立されたのだ。だから私もこのようにworkshopと称して経験を公開している。経験やセオリーをひけらかしたいからworkshopを更新しているのではない。

2.カスタマイズの重要性

自分にとっての最適解を考え、実践し、経験するのは重要だ。些細なことさえ考えず、実践をしないで、人まねだけする人が撮影や画像化の最適解をみつけられるはずがない。理由は、(1.)に書いたとおりである。

写真を撮影するうえで、カメラバッグやカメラケースをどのように扱うかにさえ基本とカスタマイズがある。

私が助手をしていたときボスである写真家が、「機材の収納方法は、私が撮影しやすいこの方法を間違えないでもらいたい。いつもこの通りに忘れ物のないように収納するには、こういったやり方(具体的な 説明)でチェックするのがよい。ただし、間違いなく収納できるようになったら自分で仕事が効率的にできるように工夫しろ」と言った。カメラケースの管理と仕事の支度を任されるようになった日の言葉だ。

折々に機材の構成が変わっても、撮影者であるボスが気持ちよく仕事ができる機材ケースへの収納法がある。助手に「あれを用意してくれ」と命じるだけでボスが機材ケースの管理をしないとしても、ちらっとケースを見たとき要領の悪さや自分にとっての合理性に欠く収納法であった場合は、撮影現場で苛立ちの原因になる。苛立ちに限らず違和感であっても、撮影のリズムや集中力が乱される。現場では撮影者が王だ。助手は彼の手足となって働く仕事だ。指示系統である頭脳に対して、手と足が勝手に振舞ったり、いちいち口出しをする事態を想像してもらいたい。民主制の否定ではなく、一人の人間の頭脳と手足の関係と同じなのだ。

ただし、間違いなく収納できるようになったら自分にとって仕事が間違いなくできるように工夫しろ」と暴君は言わない。したがってこれは賢君の言葉だ。ここにカスタマイズの重要性に関するさまざまなものを感じ取ることができる。これこそ基本とカスタマイズの要点だ。

ここでの基本は「ボスである写真家が導き出した機材の収納」であり、「まちがいなく収納するための方法」だ。機材ケースのどこに何をどのように収めるかであり、機材がちゃんと揃っているかチェックする方法だ。「間違いなく収納できるようになったら自分にとって仕事が間違いなくできるように工夫しろ」と言ったのだから、ボスは「これは自分にとっての合理性であり、他の人にとっては不合理な面がある」と知っていたことになる。特に物事のチェックのしかたは、各人の性格や計画性によって手法に向き不向きがある。だから間違いなく仕事ができるようになったら工夫しろ、なのだ。

間違いなく仕事ができるようになったあと独自の工夫をする段階になると、ボスから「明日はかくかくしかじかの撮影だ。ハッセルに、○○mmとマクロを用意して」と言われたとき「以前かくかくしかじかの撮影で急遽ナニナニが必要になったことがある。明日の撮影は状況が似ている気がする」まで思い至れるようになる。そして、機材ケースの隅に命じられなかった必要になりそうな機材を入れておこうと思う。ボスが導き出した合理性のうえに、自らの合理性を継ぎ足したからコレができるのだ。

その機材は結果的に必要ないかもしれないし、突発的な事態が起こり「ナニナニを持ってきました」とボスに耳打ちできるかもしれない。どちらであっても、よいほうに転べばボスの仕事、助手の仕事は円滑にまわる。これは助手仕事に限らない。自分にとっての最適解としてのカスタマイズによって、新たな仕事(=作業)が滞ることなく実現される。自らがボスで助手がいなくても同じなのだ。

3.それはカスタマイズか意固地な自己流か

ここで間違ってはならないのは、カスタマイズと自己流の違いだ。この点は私も常々意識的に自問自答している。先に挙げた助手の例で言えば、間違いなく機材の収納ができる段階ではないのに自己流の仕事(=作業)をすると、何回かに一度かならず取り返しのつかないミスを犯す。この失敗は、セオリーにフィードバッグできない、あるいはしても意味のないミスだ。

マン・レイが現像作業を行っているとき、愛人で助手のリー・ミラーがあやまって現像室のドアを開けモノクロ写真の明暗が反転した。このような失敗はマン・レイ以前にも発生していたと考えるのが妥当だろう。しかし、失敗を「効果」「手法」の発見につなげたのはマン・レイが最初であった。つまり、セオリーにフィードバッグできたのはマン・レイが最初であった。マン・レイがソラリゼーション手法を発見できたのは、既存の写真(あるいは芸術)を戦略的に破壊するカスタマイズを続けていたからであって、無茶苦茶を意固地で固めた仕事をしていたのではないからだ。もし単なる自己流の自己満足で終わっていた人なら、失敗をソラリゼーションとして確立できななかったはずだ。

このような例はいくらでも挙げられる。パブロ・ピカソは幼い日から絵画の基本であるデッサンを叩き込まれた。画家になってからのピカソは、こうした基本つまり凡庸な表現手法にとらわれている絵画法を破壊し再構築することに生涯をかけた。ある時代以降のピカソの作品だけ見て「滅茶苦茶だ」と言う人がいる。だが才能と基礎がない人による滅茶苦茶がまったく評価されない一方で、ピカソ作が評価されるのはピカソが高名な芸術家だからではない。ピカソはスタイルを転々とした画家だが、スタイルを確立できたのはなぜかもう説明する必要はないだろう。

しばしばアマチュア写真家が「成功率」と言うのを皆が知っている。成功率とは、成功するための基本があったうえで何らかの事情からの失敗と成功の割合いのことだ。まぐれで成功した回数と、とうぜんのこと失敗する回数の割合いではない。「このレンズの成功率が低い。相性のようだ」などということは、基本が確立されているならありえない。基本とは最大公約数的なほぼまちがいなく「平均的結果」を導き出す手法であり、ホームランは打てなくてもヒットを打ち続ける技術だ。各人の得手不得手まで否定しようとは思わないが、「不得手」を相性であるとか成功率とか誤魔化すのは欺瞞がひどすぎる。また、失敗を次なる成功やセオリーに回収できないからいつまでも失敗するのだ。これが意固地な自己流である。

 

Fumihiro Kato.  © 2016 –

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