写真のテーマと行き詰まり

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  • テーマとは何か
  • テーマとの付き合いかた
  • テーマとスランプ
  • スランプからの脱却

みなさんは何を、どのようなやり方で写真のテーマにしているだろうか。世の中にはいろいろな考えがあるから、何でもそつなく撮影できるのがよいこととする人がいるけれど、なんだかなあと私は思う。これは「テーマ」を持っているか、そのテーマを突き詰めて撮影しているかという問いと一対のものだ。

人それぞれ考え方も生き方も違うわけだし、他人の人生の責任なんて誰も負えっこないので好きにやるほかないし、誰に対してもなにごとも強制なんかできるものではない。したがって私が勝手にほざいている独り言と思ってもらえればよいが、写真をはじめたばかりの人は2〜3年くらい撮影を続けるなかで自分にとって最良のテーマを見つけるのがベストだろうし、何でも屋になろうなんて考えるべきではないと書いておく。

写真は「世界をどのような視点で見るか」「その視点で何をどう見るか」に尽きる。「視点」はもちろん撮影者のもので、これは人間性とか本能とか指向性とか思想性と直結している。下世話かつ本質的なケースとして、男性が女性を見る視点、女性が男性を見る視点に人の本性がけっこう赤裸々に出るのを思い出してもらいたい。「あの人は素敵だ」という好みからして人それぞれであるし、その人のどういうところを見たいのかも人それぞれだ。もちろん他の対象を見る視点にも言える。

もっと率直に言うなら、撮影者のフェティシズムのあり方ということなる。私は鉄道写真に興味がないけれど、これはフェティシズムの指向性が鉄道とまったく別の方角を向いてるからだ。鉄道写真を撮影したい人の中にも、撮影したいものが外観なのか状況なのかメカニズムなのか等々各自のフェティシズムのあり方があるはずだ。これこそがテーマであり「世界をどのような視点で見るか」「その視点で何をどう見るか」だ。

フェティシズムの根源は心の中にある。心そのものとあらゆる行動の原動力かもしれない。

写真をはじめて2〜3年は、機材をなんとか扱えるようになる段階といろいろ試してみる段階と、ここが重要なのだが何かに行き詰まる段階まで到達するはずだ。何かに行き詰まるとは、スランプまたはハンコを打つように同じテイストの写真ばかりになり疑問が生じる、こんな状態だろう。なぜ行き詰まりであるスランプが重要かというと、方向性や独自性について悩むところから「テーマ」の深化がはじまるからだ。「世界をどのような視点で見るか」「その視点で何をどう見るか」の悩みなのだ。

悩みを解消するには、自分のフェティシズムに真っ正直になって、嘘偽りなくフェティシズムを徹底して、フェティシズムを解放するだけなのだが、これがなかなかに難しい。

またまたとても下世話な喩えになるけれど、自分の性的フェティシズムに真っ正直になるのは、そこへ一歩踏み出すのも深淵に至るのも恐ろしい感じがするし、なかなかできることではない。写真で解決を求めるフェティシズムだって同じではなかろうか。

私は何十年も写真を撮影してきたけれど、今日までの時間すべてが自分のフェティシズムの対象と、フェティシズムの在り方そのまままを写真に落とし込む方法を探る日々だったと言える。そして調子よく撮影してはスランプがあり、また調子よく撮影できるようになってスランプの繰り返しだった。

スランブに陥ったのに気付くきっかけはいろいろだが、行き詰まりは常に「世界をどのような視点で見るか」「その視点で何をどう見るか」の「形式」や「様式」への疑念である。

具体的な話をしよう。

私の海景・砂景シリーズは真夏を避けて撮影している。これは太陽と光線の在り方のせいだし、夏場は海の周辺の人出が増えて撮影に向いていないからだ。ということでいざ出陣となった今年の9月、大切なロケ地がたくさんある千葉が台風で被災した。撮影どころではないし、できることはほとんどないが支援する術を探して行動する以外ににっちもさっちもいかなかった。

写真は不思議なもので思い通りの被写体を撮影していないと、テーマや手法に関して疑念が生じるのだった。今日の今日まで定まっていると思い込んでいた「世界をどのような視点で見るか」「その視点で何をどう見るか」がぶれてくるのだ。こんな気持ちになるのははじめてではないから解決策はわかっている。いっそどうにでもなれと、撮影にでかけるほかない。

「いっそどうにでもなれ」はなかなか有効で、ああしたいこうしたいを放棄して出たとこ勝負または空振り上等な気分で撮影すると新たな発見があったりする。錆びついて固まっていた思い込みが消えるのだ。

自分のフェティシズムを意識するところから自分らしい表現がはじまるのは説明済みだが、かなり真っ正直な表現を実現していてもだんだん「形式」や「様式」が優先されるようになりがちだ。自分なりの「形式」や「様式」ができることと、これらをコンスタントに表現できるようになるのはテーマを追求するうえでとても重要なのだけれど、フェティシズムの衝動より優先されるようになると目的と手段が入れ替わっている。

「ああしたいこうしたい」は手段についてなのだから、出たとこ勝負で空振り上等な気分で撮影するのは手段に縛られて身動きできなくなっている「視点を解放」してやることになるのだ。

© Fumihiro Kato.
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古い写真。

・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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