例の私有地だった場所の話題から

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あるアニメーション映画の舞台になった場所だとしてインスタ映えを求めて私有地に人が押しかけた話はいろいろ考えさせられる。所有者側にたてば、「ここが舞台である」とまったく関係ない場所を吹聴されて作業場である海岸に人が押しかけてくるのは迷惑極まりないし腹が立って当然だろう。撮影して拡散して更に人を呼ぶ宣伝もしたことになる人々にとっては、海岸は私有地ではないだろうという思い込みがあり、さらに柵などで囲われていないのだから立ち入り自由と信じきっていたと言いたいかもしれない。

公有地でなければ「山」にも所有者がいて立ち入りが制限されている場所がある、というのはいまどきの人なら理解していると信じたい。ところが「海岸」について私有地である可能性は? となると人々の認識はかなり怪しいところがある。海沿いなら公有地というか立ち入り自由であるはずと思い込んでいる人は多い。

海周りの撮影が多い私は、いちいち登記簿など確認してロケハンしたり撮影したりしていないが、人工的な工作物や痕跡があったらそこは私有地であると判断している。問題となった例では海から続く線路に見えるもの=船を陸揚げするレールが人工的なものと言える。錆びて朽ちているように見えても、海水の影響を受ける場所ではあたりまえに現役だったりする。近所の人、周辺にいた人が「入れるよ」と言っても話半分に聞くべきで、所有者に確認しないかぎり立ち入りが歓迎されない場所と考えておくべきだ。

なお例の場所はレールだけでなく作業場の建屋があるので、どう考えても誰かが使用している=私有地と認識できるはずだ。

こうした撮影者側の心得と別に、さも真実であるかのように「ここが舞台になった場所」と言い切る人や拡散する人の存在もまた問題だ。「そっくりだ」と思ったのだろうが、舞台そのものであると言い切った人は嘘をついていることになる。伝言ゲームの結果「舞台である」に変換されたとしても、根拠薄弱なまま事実を作り変えているのだから大問題だ。

インスタ映え以前から、反応が著しいだろうとか話題が歓迎されるだろうと話を盛る人は昔からいた。また例の話のご近所の方々も、ご近所感覚で「入れるよ」と口に出したかもしれないし、もっといい加減な気分で適当なことを言ったのかもしれない。取材仕事をしてみると痛いほど理解できるのだが、話を盛る人、適当なことを言う人がほとんどだ。嘘をつく人もまた多い。

取材は別にしても、こうした盛ったり適当に口にした言葉や嘘は以前なら身内の周辺だけで話に花が咲くだけだった。ところがSNSや話題を特集するサイトでいい加減なホラを吹聴すれば予想外の広がりを見せるのは当然である。個人が拡散するのも迷惑だが営利サイトが確認もせず記事にするなど言語道断。こうして被害が拡大する。

インスタが悪いのでもSNSが悪いのでもない。信じてしまったとしてもホラを吹聴した個人と営利目的で取り上げた企業なのか集団なのかが悪い。SNSを利用するというのは身内だけで話が収束できない状況をつくっているというリテラシーを、小学校で叩き込んでもよいのではないだろうか。ほんとタチの悪い結果を招くのだ。ほんの一瞬の盛り上がりと興奮のため悪事に手を染めてしまうのである。

何度でも書くけれど、人工的な工作物や痕跡があったらそこは私有地である。痕跡だからよい、なんて勝手に解釈してはならない。

私が気になっているのは千葉の某海岸だ。低い防潮堤がそばにあり、駐車場所として人々が使用している空き地もある。防潮堤が終わった先に、人が手積みしたと思われる低い石の垣根が磯と陸の間にある。一見すると磯が風化して垣根状になっていると見誤る可能性がある。防潮堤から先を仕切る柵がないし、この先の高台には自治体が紹介している記念碑が立っている。記念碑まで立ち入るには石垣状の場所以外に別ルートもあるのだが道筋がはっきりしない。したがってこの場所を横切って記念碑までトライする人もいる。石垣の終端から磯に降りることもできる。

なぜここが私有地かもしれないと思うかと言えば、海岸で浸食された自然石でつくられた石垣もそうだし、高台をえぐるように建てられた家の一階なのか地下なのか建築の一部が海岸に接しているからだ。

もしかしたら海岸と地続きだから人が入るのを容認しているかもしれない。地権者がはっきり意思表示しているなら別だが、これは虫のよい解釈にすぎない。企業の広告やCMでロケハンしているなら、ここはちゃんと確認する。手が回らないならプロダクションなどに確認を頼むところだ。

最終的にはリテラシーに還元される話題ではあるが、リテラシーというカタカナ言葉であーだこーだ言ってもどうしようもない気がする。「小学校で叩き込んでもよいのではないだろうか」と書いたのは、時代にふさわしい感覚というか常識の問題だからである。ある時代まで駅のホームに痰壷なるものがあった。つまり痰を吐くならココで、と示されていた。いまなら痰なんて汚物はどうしても吐きたならトイレに行け! が時代にふさわしい感覚であり常識であって、とうぜん痰壷なんて設置されていない。SNSやネットメディアが持つべき常識は、数年前とはこれくらい激変しているのだ。

「いかがでしたか?」とコピペした適当な話題で記事を量産する気持ち悪いまとめサイトが、あれだけ数が増えたのはやっている側の問題だけではなく、受け手側とこれを更に利用してSNSであれこれする人々の問題でもあるのだ。

インターネット開通期のリテラシーは現在では役に立たないとしても、スマートフォンでネットに繋がるのがあたりまえの人々の常識はかなり退化したものかもしれないと感じる。ある部分では過去より進化しているが、別の部分ではネット以前の人々となんら変わらないというか……。

花壇を荒らしたり鉄道沿線に迷惑を振りまく撮影者を批難する人は多いけれど、さもあたりまえに私有地の海岸に入り込んだ人々と、この場所を観光スポットや撮影スポットとして無責任に報じた人々の間に違いは何もない。では私はどうしたらよいかとなると、やはり時代とともに感覚や常識を更新しなくてはならないし、撮影を業とする者は感覚や常識だけに頼らない更に先を感知する目と思考を持つべきだ。

あの話題を他山の石として自戒すべきなのだ。

© Fumihiro Kato.
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・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画、取材 ・Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告 武田薬品工業広告 ・アウトレットモール広告、各種イベント、TV放送宣材 ・MIT Museum 収蔵品撮影 他。 ・歌劇 Takarazuka revue ・月刊IJ創刊、編集企画、取材、雑誌連載、コラム、他。 ・長編小説「厨師流浪」(日本経済新聞社)で作家デビュー。「花開富貴」「電光の男」(文藝春秋)その他。 ・小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・「静謐なる人生展」 ・写真集「HUMIDITY」他
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