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ニッコールDタイプのレンズについてネチネチと検証し続けて、さらに書き溜めていたメモを元にFマウントの系統をまとめる記事まで書いて正直なところ虚脱状態だ。現在カタログに載っているレンズ、カメラでさえ自分にとってどのように使えるか、使うにはどのようにしたらよいか検証せざるを得ないので、カタログ落ちして久しいものになると時代なりに信用できる部分がないから手が掛かるのだ。そんな最中に遠方へ撮影のため出かける用事ができ[こんなふうに関東圏から遠方のお仕事も受けているので、機会があったらどうぞお声かけを]、道々お気楽に写真を撮影した。スペアのカメラで撮ったりほんちゃんの撮影と別のメモリカードに保存したりとイレギュラーな約束事はあるけれど気が向くままの撮影だ。休憩中にささっと済ます撮影は気づいていない本音が出てくるもので、後日ふと思うものがあったりする。
真っ暗だった高速道路に朝日が昇りはじめようとしている時刻にサービスエリアで撮った写真から、いまどきのレンズのすごさをあらためて感じた。構図だけ決めたあとは工夫らしきものがない写真で、いつもほとんど使わない絞り開放で撮ったりするからこんなふうに感じるのだろう。2000年代の一桁年代以降に発売されたレンズは、やはり90年代のレンズと明らかに違う。しかも2010年代の10年間にレンズは劇的に進化した。標準ズームの広角端の絞り開放であっても、緩さはあるものの繊細に線と階調を記録できた。
ではここで絵日記写真をちらりと掲載しつつ話を続ける。
ニコン、キヤノンがミラーレス化に舵を切り、ミラーボックスが必要ない構造ゆえマウントが新調された。これにともなって発売されたレンズは、それはそれは素晴らしいもので画角の隅々まで几帳面に描写する。こうなるとこれまで言われていたレンズの味とか個性というものが薄まり、両社のレンズはとても似た雰囲気のものになっている。理想のレンズは諸収差を極限まで補正されるべきとされているから、つきつめて行けば似たものが出来上がる。
これが2020年代以降のレンズの潮流になるはずで、こうなると現在の一眼レフのレンズは「クラシックな写り」と言われるようになるだろう。そして90年代より前のレンズは原始的とは言われないまでも、(ちょっと大げさかもしれないが)順番が繰り下がってかなり古い写りに位置付けられる。「かなり古い」はいまどきの中古市場に溢れるクラシックなレンズどころか、コレクターアイテムになっている第二次世界大戦直後のレンズ並みの感覚になるかもしれない。1950年代のロシアレンズ、フェドの沈胴50mmでもちゃんと写ると言えば写るのだけど、デジタルで撮影することを考えるとお世辞交じりに「趣味性のある写り」といったところなので、こういう手合いに対するものに近づくのだ。この動向は2027年頃からはっきりし始めて2030年頃になると世の中の価値観が確実に変わっていると予言しておく。こんな過渡期にDタイプのマイクロ 105mm Dタイプを中古で手に入れたのは、なにか象徴的な気がしないでもない。
ライカ判以下のフォーマットが1億画素化するのは、これまでの画素数の進展よりやや遅れるような気がする。小さいフォーマットだから高密度化するのが困難なのもあるけれど、現像するため必要なCPUの高速化でムーアの法則が崩れたのもあり、1億画素が必要な写真ジャンルがいまのところ限られていて、さらにこのときレンズに要求される能力が桁違いに高くなるからだ。1億画素のカメラが現在より手軽に手に入れられる段階に至ると、レンズは1億画素まで耐えられる能力では十分ではなく、 1億数千万画素を目標にしなければならなくなるのだ。昨今のレンズは1億画素ならあたりまに使える能力があるように宣伝しているが、1億画素に驚かない時代になればやや古めのレンズはクラシックな写りなんて言っていられない惨状を呈するようになる。現在のクラシックなりのデメリットと別の問題を露呈するからだ。こんなことを言っていても、カメラがさらなる高画素化に向かうのは必然なのだが。
フィルムで撮影していた時代を知らない人が多いからしたかないとしても、かつてライカ判は豆みたいに小さなフォーマット扱いで丁寧な撮影と現像をしても限界値がとても低かったのが撮影者の認識に残っていないか最初から理解されていない。いまどきのデジタルのライカ判はフィルムで撮影される大判さえ画像寸法と解像度で凌駕していて、だから過去を知らない人は遠方にある空間周波数が高い細かな線や凹凸を解像できてとうぜんと思っている。これが現代の感覚だ。さらにディスプレイで等倍にしても、全紙にプリントしても隅々まで高精細でないならダメレンズのレッテルを貼る。レンズをここまでの性能にするため、ほんとうに大変な努力があったのだ。コレクターがニッコールの非民生用、たとえば製版やら特殊技術分野用のレンズを絶賛しているけれど、いまカタログに載っているレンズ+高画素機の組み合わせと比較してそんなに優れているものではないのだ。
以前から書いているけれど、3000万画素台と4000万画素台ではごくごく普通に使えるレンズの範囲がかなり変わる。面白レンズとして使うならこの限りではないけれど、両者で写りが激変してなんだかなあとなる。2010年代あたりに開発・発売されたものはよいけれど、それ以前のものは不安定な結果になりがちだ。一眼レフでこれなのだから前述のようにミラーレスではどうなることやらである。マウントアダプタを介した場合、画素数が同じなら基本的に写りは同じだがミラーレスの新マンウトレンズとの比較がどうなることやらだ。だから2027年前後から顕著になり2030年には確実にレンズにおれるクラシックの定義が変わりそうなのだ。前述の通りフィルム時代のライカ判レンズは現在要求される解像性能を想定していないし、これは中判、大判も変わりない。中判、大判は引き伸ばし倍率がすくなくて済むのでライカ判より解像度も階調性も甘い基準でつくられている。このほかにも、デジタル化で問題になる点がとうぜん対策されていない。
さてこれからレンズはどうなって行くのだろうか。各社のレンズで性格と性能が近づき、レンズにおけるクラシックの定義が変わる。現在はニコンユーザーとアダプタを介して使う他社ユーザーが、使えるクラシックとしてAi-Sタイプを重宝しているけれど、これらは大クラシックになりDタイプあたりが頃合いのよいクラシックになるかもしれない。ちなみに私が手に入れたAI AF Micro Nikkor 105mm F2.8Dはシリアルナンバーによれば2006年に実施された新しいナンバリングに変わる前のもので、これはたぶん後玉にセンサー対応のコーティングが施される前だ。これだけの違いでも実写結果が変わるのである。中古市場の動向はどうでもよいとして、これからのレンズの動向には興味が尽きない。そして写真全般がどう変わるか、人がどう変わるか、なのである。
追記。
古めのレンズを使い続けたい人は4000万画素台からこれからの1億画素のカメラを買う際に、画素数が低いカメラを下取りに出すか温存するか一考することをお勧めする。古めのレンズでは、いま使っているカメラと明らかに写りが変わるからだ。
Fumihiro Kato. © 2019 –
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